今日は子供の日ということで、新聞に子供が描いた絵を使った広告が
たくさん載っていた。
小学生が描いた絵というのは、ほとんどの人が思い浮かべることの
できるパターンがあるだろう。
人物を真正面から描いて、下手くそながら元気さがある。
学校では、絵の描き方の技術的な指導はほとんど行わないはずだ。
そんなことより、子供の感性を伸び伸びと表現させましょう、みたいな
指導要領があると思う。
それはそれでひとつの見識だ。
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義務教育の段階で絵を描くのをやめた人は、そこからほとんど手を
動かさないだろう。
つまり幼稚な技術のまま大人になって、一生そのレベルで終わる。
絵が好きな人や、芸術系の大学に行く人を除けば、だいたいそんな
ものだろう。
(老人になって絵手紙とか俳画などの趣味に目覚める人もいるが)
私が問題にしたいのは、デッサン力のことだ。
ものの形を正確に写しとる技術である。
なにも写真のように描かなくても、何を描いたのか他者に分かれば
それでいい。
義務教育で、あまりデッサン力をうるさく言わないのは、社会に
出ても必要ないと思われているからだろう。
楽器の演奏と同じで、好きな人が上手にできたらそれでいい、と
いうスタンスだと思う。
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私は、日本の義務教育は、感覚主義というか、技術軽視ではないかと
思うことがある。
絵に限らず、国語もそうだ。
自分の思っていることを他人にわかりやすく伝える技術は、デッサン力と
ほとんど同じことなのだが、考えさせられるのはいつも“作者の気持ち”だ。
読書感想文を書かせるよりも、論理的な文章構成を教えるべきではない
だろうか。
小学校で導入される英語もそうだ。
あれはまさに小学生が描いた絵のレベルである。
子供が描いたのなら許されるが、いい大人が描いても通用しない。
中学・高校で、きちんと英文法を学ぶ必要がある。
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何も見ずにカエルを描いてみて、それが他人にカエルと分かるなら、
あなたのデッサン力は普通である。
意外とうまく描けないと思うが、学校でできるのはその程度だ。
義務教育で図画工作をやっているのに、ちっとも絵がうまくならない、
というのは言いがかりだと誰もが思うだろう。
だが、学校で英語を教えているのに喋れるようにならない、という
クレームが通ってしまうのは不思議な話だ。