Boaz2014-05-05

今日は子供の日ということで、新聞に子供が描いた絵を使った広告が
たくさん載っていた。


小学生が描いた絵というのは、ほとんどの人が思い浮かべることの
できるパターンがあるだろう。
人物を真正面から描いて、下手くそながら元気さがある。


学校では、絵の描き方の技術的な指導はほとんど行わないはずだ。
そんなことより、子供の感性を伸び伸びと表現させましょう、みたいな
指導要領があると思う。
それはそれでひとつの見識だ。



義務教育の段階で絵を描くのをやめた人は、そこからほとんど手を
動かさないだろう。
つまり幼稚な技術のまま大人になって、一生そのレベルで終わる。


絵が好きな人や、芸術系の大学に行く人を除けば、だいたいそんな
ものだろう。
(老人になって絵手紙とか俳画などの趣味に目覚める人もいるが)


私が問題にしたいのは、デッサン力のことだ。
ものの形を正確に写しとる技術である。
なにも写真のように描かなくても、何を描いたのか他者に分かれば
それでいい。


義務教育で、あまりデッサン力をうるさく言わないのは、社会に
出ても必要ないと思われているからだろう。
楽器の演奏と同じで、好きな人が上手にできたらそれでいい、と
いうスタンスだと思う。



私は、日本の義務教育は、感覚主義というか、技術軽視ではないかと
思うことがある。


絵に限らず、国語もそうだ。
自分の思っていることを他人にわかりやすく伝える技術は、デッサン力と
ほとんど同じことなのだが、考えさせられるのはいつも“作者の気持ち”だ。


読書感想文を書かせるよりも、論理的な文章構成を教えるべきではない
だろうか。


小学校で導入される英語もそうだ。
あれはまさに小学生が描いた絵のレベルである。
子供が描いたのなら許されるが、いい大人が描いても通用しない。
中学・高校で、きちんと英文法を学ぶ必要がある。



何も見ずにカエルを描いてみて、それが他人にカエルと分かるなら、
あなたのデッサン力は普通である。
意外とうまく描けないと思うが、学校でできるのはその程度だ。


義務教育で図画工作をやっているのに、ちっとも絵がうまくならない、
というのは言いがかりだと誰もが思うだろう。
だが、学校で英語を教えているのに喋れるようにならない、という
クレームが通ってしまうのは不思議な話だ。