官房長官東京新聞に対して、国会議員は選挙で選ばれた国民の

代表であるが、新聞記者は民間企業であり国民に選ばれたわけでは

ない、と伝えたそうだ。

 

記者が国民の代表であるという根拠とは何か? 

ちょっと考えてみよう。

 

 

国会で行われているのは、ざっくり言えば、法律を作ることと、

税金の使いみちを話し合うことだろう。

税金はもちろん国民から集めたものだから、国民には何に使うか

知る権利がある。

 

また、国会議員も主権者である国民の代表なのだから、質問には

国防などの秘匿すべきこと以外は答える義務があるだろう。

 

 

納税者が国会に押しかけていちいち質問をすることは現実的では

ない。誰かがその役割をやる。それが報道機関の人間である。

しかし彼らは国民から選ばれてはいない。

官房長官はそこを突いたわけである。

 

だが、自由がある国では、新聞は何種類か発行されて市場で

選別されている。人々は自分の好みの新聞を買う。売れない

新聞はなくなっていく。

 

つまり新聞は市場を通じて間接的に国民に選ばれている、と

言えるのではなかろうか。

 

 

新聞には、政府のスピーカーのようなものもあれば、政府を

攻撃するものもあるだろう。言論の自由があれば当然である。

それらの代表が国会議員に対して質問をする場があるのだから、

質問の内容もゆるいものから厳しいものまであるはずだ。

 

自分が気に入らない質問をされたからといって、その記者を

排除するのは国会議員としていかがなものか。

厳しい質問をうまくさばくのが官房長官の技量というものでは

ないですかね。

そろそろマンガの擬音を日本国語大辞典みたいに初出を示して

辞書的に編纂してもいいのではないか、と思った。

でも金も時間もかかるので、たぶん誰もやらないだろうな。

 

たとえば、食べるときの擬音はだいたい「もぐもぐ」と表記

されるが、最近は「もっもっ」と描いてあることが多い。

「もぐもぐ」よりも一心不乱に食べている感じがする。

新しい表現だと思うが、誰がどのマンガで最初に出したのかが

分からない。分かったからどうだと言われても困るが。

 

静けさを表す「シーン」とか、心理的な衝撃を表す「がーん」

とかも、誰が発明したのか調べたら面白いのではなかろうか。

 

でも、多くの擬音はあまり拾われずに残らなかったのだろう。

それでも新しい表現を作り続けるマンガ家はすごい。

*[本]全国マン・チン分布考

女性器や男性器を全国の人はどのように呼んでいるか、を調べた
一冊である。
面白い読み物ではあるが、学術的に正しいかどうかは疑問だ。
歴史モノの、本能寺の変明智光秀の陰謀が、というやつと同類では
なかろうか。
言語学の呉座勇一みたいな人がきちんと検証してほしい。


そう思ってアマゾンのレビューを見たら、ほとんどが絶賛である。
ちょっとびっくりした。
私と同じ意見なのはほとんど1人だけだった。
その人と同様、性器の呼び方は親が我が子を慈しむ気持ちから
生まれた、と根拠もなく断定しているのはおかしい、と私も思う。
ほかにも、それはあなたの思い込みですよね、という記述が多く、
論証になっていないところが多い。
(ただ「魔羅」の梵語漢訳説を論破しているところは正しいと思う)


正直、言語地図で同心円状になっているとされるが、牽強付会
ところもあるのではないか。


結びの章は、うっすらと日本会議臭がただよっていて、読み進むのが
辛かった。本書に百田尚樹はまったく登場していないのだが、逆に
そこに違和感をおぼえる。

*[映画]劇場版 ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか オリオンの矢

平日のレイトショーで観客は9人。公開5日目だがこんなものだろうか。
地方で上映してくれるだけでありがたい。


劇場版のダンまちは、途中からどんな話になるか何となく分かってしまった
けれど、最後までちゃんと見ることができた。
原作を読み込んでいるファンにとっては嬉しい作品だと思う。



最近は深夜アニメを映画化することが多い。
円盤が思ったより売れなくなったので、別のリクープ方法を模索している
途中なのだろう。


ただ、「幼女戦記」にしても「ダンまち」にしても、特別な劇場版、という
感じでもなく、テレビシリーズに組み込まれても違和感のない出来だった。
それでも見たいオタクたちが映画館に来ているわけだが、果たしてこの
映画ラッシュはどのくらい続くのだろう。


そのうち、集客が見込める大都市だけで上映して、ある程度儲けたらパッと
打ち切るようになるかもしれない。
地方の人は円盤でどうぞ、というわけだ。


そうならないためにも、見たい作品はできるだけ映画館で見るようにして
いるのだけれども、オタクの絶対数が少ないので、劇場側が嫌がるように
なるのかも、と心配している。


首都圏の人は、地方に住んで不便なのは自業自得、ぐらいに思っている
かもしれない。

Wikipedia を信じるなら、フィフィというタレントは2歳から日本で

生活して、米国留学以外はほぼ日本で暮らしているらしい。

私はてっきりエジプトで生まれ育ってアラビア語もペラペラだと

思っていた。

 

ということは、国籍こそエジプトだが、単なるネトウヨということか。

彼らが在日外国人に対してよく言う「自分の国に帰れ」というフレーズを

そのままぶつけたい。

 

しかし、ケント・ギルバートにしろフィフィにしろ、なぜ外国籍の

タレントでネトウヨになる人がいるのだろう。

自分でそうなったというよりは、誰かにそそのかされているのか。

それとも商売上そういうことを言っているのか、よく分からない。

関ジャム 完全燃SHOW」のアニソン特集を見た。大石昌良

出演したからだ。

 

今回は音楽家の立場で出演しているので、メガネをかけたオーイシ

マサヨシではない。なので後半までほぼ喋らずおとなしかった。

いっそオーイシマサヨシのキャラで出演した方がトークを拾って

もらえたのかも、とも思うが、空回りする可能性もあるので

安全策をとったのかもしれない。

 

最後にあったジャムセッションは、一瞬、フットボールアワー

後藤に見えるときがあったが、さすがのパフォーマンスだった。

 

 

菅野よう子を取り上げるなら、梶浦由記も触れるべきだと思うが、

尺が足りなかったのだろうか。

北川勝利やヒゲドライバーまで及んだらさすがに一般の視聴者が

ついていけないと判断しただろうし、難しいところだ。

 

 

こういうアニソン業界の作曲家は、アイドル業界の作曲家と

クロスオーバーしないものなのか、という疑問が湧いた。

それぞれの縄張りが決まっているのだろうけど、いい曲を書く

人が活動の場所を広げるのはレコード会社にとっても悪い話では

なかろう。

子犬や子猫をもふもふしたい、という気持ちがある。

サイコパスでない限り、たいていの人にわかってもらえると思う。

 

フロイト的な解釈によって、フェティシズムなどの様々なタイプの

欲望が性欲の範疇に入るようになった。

 

では、小動物をもふもふする衝動は広い意味で性欲に入るのか。

個人的には性的な興奮ではないと思うのだが、専門家ではないので

断定はできない。

 

 

なぜこんな話をしているかというと、最近の深夜アニメでは、

女性が女児を可愛がる作品が多いからだ。

今期だと「私に天使が舞い降りた!」がそうである。

 

一般にロリコンとかペドフィリアと呼ばれるものは、明らかに

性欲であろう。

しかし、このアニメで表現されているのは、むしろ女児を子犬

とか子猫のように愛でたいという欲望である。

 

まあ、女児にとっては意に沿わないことをされるという意味では

同じ苦痛かもしれないが。

 

 

子犬や子猫を見たときに、可愛いなぁ、と思うことは間違って

いないはずである。

小学生の女の子を見たときはどうか。女性はともかく男性なら

誤解されるのではないか。

(もちろん勝手に触るのは犯罪である)

 

岩合光昭の世界ネコ歩き」を見ているときの気持ちと同じ

ような感じだと思うのだが、人間が対象になると変態になって

しまうのが不思議だ。