Boaz2014-03-30

アニメ「キルラキル」が終わった。
ここのところ終了したテレビ番組の感想ばかり書いているが、そういう
時期なのでしょうがない。


私は関西への三都制圧襲学旅行あたりでダレたかな、と思ったが、
終盤は勢いを加速させて豪快に終わった。
今どき、圧倒的なテンションをどんどん強めていって力技で締めくくる
作品は「キルラキル」ぐらいだろう。見事だった。



宇宙生命体のエサにするために、全人類に同じ素材の服を着せる、という
野望に対し、敢然と抗う若者たち。
私はこの作品から、反グローバル主義のメッセージを受け取った。


こんな感想は、あまりに朝日新聞的だろうか? 


それでも、鬼龍院羅暁や針目縫の傲慢な態度は、グローバル企業を揶揄
しているように思えた。


地球から搾り取れるだけ搾り取って、また別の惑星に向かう生命繊維は
市場経済の欲望そのものではあるまいか。


「わけのわからないもの」は、非生産性や多様性のことである。
グローバル化が嫌うこれらが、実は大切なものなのだ、という宣言は、
わりと日本のアニメの通奏低音のような気がする。



わざと昔のアニメっぽい作画にしていたが、コンピュータの液晶画面や
字幕のフォントはスタイリッシュでよかった。
音楽もいい。



服とはそもそも何か? という問いを投げかけられたら、どう答えたら
いいだろうか。
寒さや直射日光を防ぐ道具としての役割と、ファッションに分けられる
だろう。


そして、ほとんどの人はファッションに確固とした考えはない。
ただ流行から浮かないように、その範囲でわずかな差異を選んでいるに
すぎない。


若き日の山本寛斎の写真を見たことがあるが、自分の中にファッションの
基準がある人は、とんでもない服を着ても様になるのである。


服は“自分はこんな人です”と表現するものである。
目立ちたくない人は、普通の人に見える格好をするし、ヤクザはなるべく
怖そうな服を選ぶ。


ファッションに興味のない人は、“ファッションに興味がないです”と
いう服を着ている。
それじゃあんまりだから、うちの服にしとけば頭を使わなくても多少は
オシャレに見えますよ、安いし、と宣伝して大ヒットしたのがユニクロだ。


だんだん何が言いたいのか分からなくなってきた。
人間を着ている服で判断するのはいかがなものか、と思うけれど、
服で表される人間性はわりと大きいとも思う。


「人は人 服は服」というセリフは、けっこう考えさせられる。
でも、服に振り回されている人は、そもそもアニメなんか見ないのだ。
ファッションオタクだってオタクのくせに、なぜあんなに偉そうなのか。
理不尽である。