アニメ「キルラキル」が終わった。
ここのところ終了したテレビ番組の感想ばかり書いているが、そういう
時期なのでしょうがない。
私は関西への三都制圧襲学旅行あたりでダレたかな、と思ったが、
終盤は勢いを加速させて豪快に終わった。
今どき、圧倒的なテンションをどんどん強めていって力技で締めくくる
作品は「キルラキル」ぐらいだろう。見事だった。
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宇宙生命体のエサにするために、全人類に同じ素材の服を着せる、という
野望に対し、敢然と抗う若者たち。
私はこの作品から、反グローバル主義のメッセージを受け取った。
こんな感想は、あまりに朝日新聞的だろうか?
それでも、鬼龍院羅暁や針目縫の傲慢な態度は、グローバル企業を揶揄
しているように思えた。
地球から搾り取れるだけ搾り取って、また別の惑星に向かう生命繊維は
市場経済の欲望そのものではあるまいか。
「わけのわからないもの」は、非生産性や多様性のことである。
グローバル化が嫌うこれらが、実は大切なものなのだ、という宣言は、
わりと日本のアニメの通奏低音のような気がする。
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わざと昔のアニメっぽい作画にしていたが、コンピュータの液晶画面や
字幕のフォントはスタイリッシュでよかった。
音楽もいい。
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服とはそもそも何か? という問いを投げかけられたら、どう答えたら
いいだろうか。
寒さや直射日光を防ぐ道具としての役割と、ファッションに分けられる
だろう。
そして、ほとんどの人はファッションに確固とした考えはない。
ただ流行から浮かないように、その範囲でわずかな差異を選んでいるに
すぎない。
若き日の山本寛斎の写真を見たことがあるが、自分の中にファッションの
基準がある人は、とんでもない服を着ても様になるのである。
服は“自分はこんな人です”と表現するものである。
目立ちたくない人は、普通の人に見える格好をするし、ヤクザはなるべく
怖そうな服を選ぶ。
ファッションに興味のない人は、“ファッションに興味がないです”と
いう服を着ている。
それじゃあんまりだから、うちの服にしとけば頭を使わなくても多少は
オシャレに見えますよ、安いし、と宣伝して大ヒットしたのがユニクロだ。
だんだん何が言いたいのか分からなくなってきた。
人間を着ている服で判断するのはいかがなものか、と思うけれど、
服で表される人間性はわりと大きいとも思う。
「人は人 服は服」というセリフは、けっこう考えさせられる。
でも、服に振り回されている人は、そもそもアニメなんか見ないのだ。
ファッションオタクだってオタクのくせに、なぜあんなに偉そうなのか。
理不尽である。