ものを汲み取っている気がする。
私が面白かったのは赤坂散歩の方で、これは少しだけ土地勘がある
から、どういう風景か想像できた。
かつて赤坂に住んでいた人をいろいろと取り上げるが、そのなかに
高橋是清がいた。
明治17年、31歳のとき、農商務省の権少書記官になったのが正規に
官につかえたはじめだったが、これより前、神田淡路町で、友人と
ともに「共立学校」という予備校をおこした。もっとも同校は明治4年、
旧幕臣の佐野鼎の創立によるものだが、鼎の死後衰えていたので、
再興したといっていい。現在の開成学園中・高等学校である。当時、大学は一つしかなかった。そのジュニア・コースが「大学
予備門」(のちの第一高等学校)とよばれていたのだが、なにぶん
その入学試験が困難な上に、地方の五年制中学校の内容がまだ
ととのっておらず、とくに英語の実力が受験生に不足していた。
「共立学校」はそのための補修塾だった。
唐突に正岡子規のことをもちだすようだが、子規が松山中学を
中退して大学予備門を受験すべく上京したのが、明治16年、17歳の
ときだった。すぐさま「共立学校」に入った。
このときの英語教師が、高橋是清だったのである。
(p265)
もうひとつ、赤坂と直接関係はないが、戦車の話もあった。
昭和20年の早春に満州から連隊ぐるみ栃木県に移ってきたときの
ことである。その時期に穴を掘った。私どもは、戦車部隊だった。当時の日本の戦車は、機械としてはよくできていたが、なにしろ
モデル・チェンジが十数年も遅れていたから、世界的水準からみれば
骨董品で、素のままではとてもアメリカ軍の戦車と射ちあうわけには
いかない。
「だから、相手の横っ腹を射て」
といわれたのだが、戦車というのは牛若丸のようにひらりひらりとは
いかないのである。
そこで考えられたのは、穴だった。
私どもが掘ったふしぎな穴は、みずから戦車ぐるみそこにもぐり
こんで、土をもって装甲の薄さを補うというものだった。いったいそんなものが役に立つのかどうかは知らないし、そんな
ことをやった国はない。
あらかじめ予定戦場と思われる原っぱに、自分たちの戦車が
もぐりこむ穴を掘っておくのである。その穴に各車ごとに進入し、
砲塔だけ地上に露出させて敵戦車を射つ。そのあとギアをバックに
入れて猛烈な勢いで後進して穴から出、つぎの穴にむかって躍進する。
机上の空論もいいとこだが、これ以外、米軍のM24に対抗する方法が
なかったのだろう。M24の75ミリ砲は、わが薄い装甲を豆腐のように
つらぬく。一方、わが57ミリ(あるいは47ミリ)砲は、いくら射っても、
M24の前部装甲にカスリ傷もあたえない。
そういう穴を、栃木県の不毛の台地にいくつも掘った。大体、その
台地に敵がきてくれるかどうかもわからないというあいまいな根拠に
立った案だから、そのうち沙汰やみになった。私の小隊だけでも
5つか6つ掘ったような記憶がある。
ともかく堀りあげてみると、哄笑したくなるようにいい気持ちなので
ある。輪郭のくっきりした成就感で、働いたぞという感じでもあり、
小説が一編できあがったときの感じなど、とてもおよばない。
(p281-282)
この、穴を防御に使うというのは「ガルパン」で見たことがある
のだが、実はわりとよくやることなのだろうか。