*[本]街道をゆく19 中国・江南のみち/街道をゆく20 中国・蜀と雲南のみち

街道をゆく 19 中国・江南のみち

街道をゆく 19 中国・江南のみち

司馬遼太郎の中国紀行である。この2冊はセットで読むといいのだが、
私は「蜀と雲南のみち」の方が面白かった。
というのも、こんにゃくとか麻婆豆腐といった食物の話や、諸葛孔明
話が出てくるからである。


「江南のみち」の方は、ジャンク船についての記述に熱が入っていた
ように思える。
珍しく本人が書いた絵も載っている。須田画伯にスケッチしてもらう
ほどでもなかったのだろうか。


引用したかったのは次の部分。

 ときに、秦檜(1090~1155)という政治家がいた。
私どもが岳飛(王)廟の楼門を入ったとき、すぐ右の塀ぎわにすわっている
鋳鉄製の人物を見た。秦檜とその妻である。
 二人の像は檻のような鉄柵の中に入れられ、後手に縛られてひざまずいて
すわり、うなだれている。肉袒(上半身の肌をあらわす)しているのもまた
罪人のすがたで、この時代、さらしものにされる者はこういう姿だったので
あろう。
 秦檜は、南宋の宰相で、一代を通じて権勢を誇った。その晩年、しきりに
一族の繁華をはかり、政治を私物化した。最後も平穏で、この鋳鉄製の秦檜
夫婦のような目には遭わず、栄耀につつまれて死んだ。ひとびとは、天道の
不公平を思ったのであろう。
「死せる秦檜を鉄人として再生させ、さらしものの刑にかけて、醜を天下に
曝させたい」
という後世の民衆の思いが、こういうかたちをとった。秦檜は、忠誠な将軍
岳飛を獄につなぎ、次いで殺したが、岳飛のこの廟所にあっては逆になって
いる。宰相が檻に入れられ、はずかしめられているのである。
(p118-119)

検索するとたしかにそのような鋳鉄製の像が出てくる。
今も同じようにあるのだろう。
日本でも竹中平蔵が死んだあとにやってくれないかな。



「蜀・雲南のみち」では、最後にこんなことを書いている。
ある老華僑の話として

 日本人は許すと、すぐ忘れてしまう。許したら、忘れなければいけない、
と考えているようだ。中国人の場合は違う。許した後は、きれいにつき合うが、
その事実は決してわすれていない。

という言葉を引用し、

 蛇足だが、私個人についてふれておきたい。私は、明治憲法によって徴兵
されたが、運よく戦闘を経験しなかった。関東軍に属し、満州の四平にあった
陸軍四平戦車学校で教育をうけ、そのあと東部国境に近い石頭という村落に
ある戦車第一連隊にいた。


 その間、一度も日本兵が中国人に乱暴している光景も見なかったし、その
類の噂もきかなかった。敗戦の数ヶ月前に連隊とともに日本内地に帰ってきた
ために、戦後、読んだり聞かされたりした日本兵の乱暴ということを肉眼では
見ていない。むしろ、敗戦直後の混乱した社会で、在日朝鮮人や華僑のなかの
跳ねっかえりが、しきりに乱暴してまわっていた事実を、新聞記者として
見聞きしたことがあるだけである。


 要するに、私自身は、この両国間のかつての軋轢について即物的な感情体験が
ない。ただ、同時代人として、日本が中国を侵略した事実を、資料知識と、
満州における地理的感覚でもって知っているだけである。加害者国に属して
いるために、個人としては右の老華僑の談話にあるように、忘れようとしている。
被害者側は忘れがたいのだが、加害者側は、忘れようと思えば、そうすることも
できる。私個人に関するかぎり、いちいち贖罪感を通して中国人に接したり、
その風物の見たりしたことはない。


 が、侵略した、ということは、事実なのである。その事実を受け容れるだけの
精神的あるいは倫理的体力を後代の日本人は持つべきで、もし、後代の日本人が
言葉のすりかえをおしえられることによって事実に目を昏まされ、諸事、事実を
そういう知的視力でしか見られないような人間があふれるようになれば、日本
社会はつかのまに衰弱してしまう。
(p263-264)

これは今でも通用する警告だろう。