昨日の「街道をゆく」4巻にあったエピソードにこんなのもあった。

「私は猫が涙を流して泣いているのを見たことがあります」

と言い出して、話が丹波から京都の巷へ外れてしまった。

Iさんの母堂は飼い猫のしつけにやかましく、このためその猫は

いやしくもお膳の上のものに手をのばすということがなく、堪えに

堪えているようなふぜいで、人間たちが食事をするのを待っている

というのが彼女の日常であった。

 ある日、母堂が親戚の家へゆかれると、そこの猫はじつに放縦で、

お膳の上のものを嗅いだり、手でひきよせたり、包み紙に首を

つっこんだりして、母堂はそのために神経がくたくたになって

帰宅した。

「そこへゆくと、ほんまに、お前はおとなしゅうて、ええ子やな」

 と、母堂は夕食のとき、猫をふりかえって、ほめてやった。

そのとき猫が無言で泣き出したというのである。大きな目にみるみる

涙があふれて、その滴ってゆく涙がひげを濡らしたというから、

とてもなにかの見違えとはちがいます、私もびっくりしましたし、

母も息をのんで見つめていました、とIさんはいった。その猫にすれば

某さんの家の猫こそ猫らしい猫で、自分は御当家の御躾に耐え忍んで

いるだけなのです、と言いたかったのであろう。(p153-154)

ほんまかいな、と思ってしまうが、京都の家のことなので嘘ではないかも

しれない。その可哀想な猫は長生きできたのだろうか。