このシリーズを4巻まで読んで気がついたのだが、司馬遼太郎は
しばしば旅館やホテルで粗末な扱いを受ける。
それをその場で怒るのではなく、エッセイを書く段階でじんわりと
皮肉を効かせるのである。
本書だと敦賀のホテルに泊まったときに、不躾なことを言われる。
1972年ごろの司馬遼太郎はすでにベストセラー作家のはずだが、
顔は知られていなかったのだろうか。
歴史のウンチクでは、以下のところが面白かった。
大本教の弾圧を決意し、実行したのは、当時の検事総長である
平沼騏一郎である。
平沼という人物は単なる官僚ではなく、当時の思想右翼の団体である
国本社の総帥であった。平沼はかねて当時の用語でいう重臣たちから
「国家の官吏がそういう思想団体を主宰していることは好ましくない」と
それとなく説諭されたことがあるようだがきき入れず、むしろこの団体を
足場にして軍部と結びつき、平沼内閣の樹立を執拗にもくろんでいた。
国本社は最盛期には公称会員数二十万といわれ、その志向するところが
ドイツのナチやイタリーのファシストと酷似しており、さまざまな点から
みて平沼はヒトラーやムッソリーニになろうと願望してそれなりの踏み台を
着実にきずいた昭和期における唯一の人物であるかもしれない。平沼がヒトラーになれなかった理由は、ヒトラーのような大衆的人気が
かれにはすこしもなかったこと、また、かれの法律的教養がその言動に
飛躍性をあたえなかったこと、そしてなによりも致命的なことはかれが
無能であったことである。かれは大本教弾圧の四年後である昭和十四年に
かれが多年あれほど望んでいた首相になったのだが、対独外交において
かれの好きなヒトラーにふりまわされ、組閣後わずか七ヶ月にして、
「欧州の大地は複雑怪奇なる新情勢を生じたため」という珍声明をのこし、
逃げるように内閣を投げ出してしまうのである。この声明は意訳すれば
「外交問題の見当がつかなくなった」という意味で、自己の無能のみを
理由に内閣をなげだした例は日本の憲政史上絶無かもしれない。
(p136-137)
司馬遼太郎の没後、日本の政治状況がどうなったのか、もし見ていたら
目を覆うかもしれない。