- 作者: 若木民喜
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2015/10/16
- メディア: コミック
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単なる哲学概論ではなく、作者自身が考えていることをマンガにしている
から面白いのだろう。
あまり売れないと踏んだのか、判型を大きくして、カバーに銀の箔押しを
使っているから、583円+税とちょっとお高めだ。
はたして重版がかかるかどうか。
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分かりやすくするために、哲学的な思考に目覚めた人(とヒトデ)の頭には
大きなねじがついており、そうでない人は普通の姿である。
選民思想のところで、ねじのついていない人はDQNかリア充になっているが、
これは中二病的読者を引き込むためのテクニックで、実際は、ものごとを
根源的に考えずに日常生活を送る普通の人がほとんどだろう。
第1巻では、デカルトのコギトから実存主義やハイデガーの存在論まで進んだ
が、ここから主人公の(同時に作者の)思考はどこにたどり着くのか。
ねじくんは西洋哲学ではなく、仏教の悟りを目指したほうがいいのでは、とも
思うが、2巻でどうなるのか楽しみだ。
↓
このマンガの第6話で、若木民喜は自作の「アルバトロス」と「神のみぞ知る
セカイ」を比較して、どちらが偉大な作品か、という問いを立てている。
そして
巷に流布する
「優れている」という評価は
売れたという「結果」に
対して出されたものだ。
売れる前から評価は
できないし、しない。(p 107)
と言っている。
ここを読んで、私は米澤穂信の「クドリャフカの順番」の中の漫研の論争を
思い出した。
あらゆる作品は主観によって決まるから、名作か駄作かは読者だけが決められる、
という意見に対して、誰が読んでも名作というものはある、と反論するやつだ。
若木民喜は、作者の側から、「神のみ」を描いているときに超越的な体験を
したので、自分にとっては「神のみ」の方が大事である、と言っている。
これもひとつの真理だろう。
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編集者は、目の前の作品が面白いかどうかを判断するのが仕事である。
一般の読者のひとりでもあるし、商売になるかどうかを判断する人でもある。
「クドリャフカの順番」の論争で言うなら、編集者は名作か駄作かはともかく、
売れる作品かどうかを見分けられる必要がある。
そうしないとビジネスは成り立たない。
実際は当たり外れや相性があるが、名作を生む人を育てた編集者は存在する。
ということは、時間をかけて普遍性を獲得するまで待たなくても、ある程度は
判断できるということにならないだろうか。
「クドリャフカの順番」では、最終的に先輩が名作に嫉妬して屁理屈をこねた、
という、ほろ苦い結末になっている。
作中の人物に、ぜひ「ねじの人々」を読んでほしいものである。