ねじの人々

中学生ぐらいから読んでも面白い哲学マンガだと思う。
単なる哲学概論ではなく、作者自身が考えていることをマンガにしている
から面白いのだろう。


あまり売れないと踏んだのか、判型を大きくして、カバーに銀の箔押しを
使っているから、583円+税とちょっとお高めだ。
はたして重版がかかるかどうか。



分かりやすくするために、哲学的な思考に目覚めた人(とヒトデ)の頭には
大きなねじがついており、そうでない人は普通の姿である。


選民思想のところで、ねじのついていない人はDQNリア充になっているが、
これは中二病的読者を引き込むためのテクニックで、実際は、ものごとを
根源的に考えずに日常生活を送る普通の人がほとんどだろう。


第1巻では、デカルトのコギトから実存主義ハイデガー存在論まで進んだ
が、ここから主人公の(同時に作者の)思考はどこにたどり着くのか。


ねじくんは西洋哲学ではなく、仏教の悟りを目指したほうがいいのでは、とも
思うが、2巻でどうなるのか楽しみだ。



このマンガの第6話で、若木民喜は自作の「アルバトロス」と「神のみぞ知る
セカイ」を比較して、どちらが偉大な作品か、という問いを立てている。
そして

 巷に流布する
「優れている」という評価は
売れたという「結果」に
対して出されたものだ。
売れる前から評価は
できないし、しない。(p 107)

と言っている。


ここを読んで、私は米澤穂信の「クドリャフカの順番」の中の漫研の論争を
思い出した。
あらゆる作品は主観によって決まるから、名作か駄作かは読者だけが決められる、
という意見に対して、誰が読んでも名作というものはある、と反論するやつだ。


若木民喜は、作者の側から、「神のみ」を描いているときに超越的な体験を
したので、自分にとっては「神のみ」の方が大事である、と言っている。
これもひとつの真理だろう。



編集者は、目の前の作品が面白いかどうかを判断するのが仕事である。
一般の読者のひとりでもあるし、商売になるかどうかを判断する人でもある。


クドリャフカの順番」の論争で言うなら、編集者は名作か駄作かはともかく、
売れる作品かどうかを見分けられる必要がある。
そうしないとビジネスは成り立たない。


実際は当たり外れや相性があるが、名作を生む人を育てた編集者は存在する。
ということは、時間をかけて普遍性を獲得するまで待たなくても、ある程度は
判断できるということにならないだろうか。


クドリャフカの順番」では、最終的に先輩が名作に嫉妬して屁理屈をこねた、
という、ほろ苦い結末になっている。
作中の人物に、ぜひ「ねじの人々」を読んでほしいものである。