海辺のカフカ

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

10年前のベストセラーの感想をいまさら書いたところで意味がないと思う
のだが、読んでしまったのでなんとかひねり出してみる。


私の村上春樹の読書歴は「ダンス・ダンス・ダンス」で止まっていて、
そこから長編小説は全く読んでいなかった。
海辺のカフカ」は、古本屋で100円で売っていたので、たまたま手に
とってみたのだ。



グイグイ読ませる力はすごいもので、途中まではすごく面白かった。
が、最後まで読んで、あれ、そこで終わるの? と拍子抜けした。


村上春樹の小説は、マジシャンが火とか煙で聴衆の目を引きつけておいて、
隠れたところで何かをして、パッと意外なものが現れるような手管がある。


一般的な人は、すごいマジックだったなぁ、と楽しんで終わるのだが、
どうやってネタを仕込んだのか気になる人にとっては、ありきたりの手品を
華々しく見せられているようで、素直に賞賛できないのだろう。


そして村上春樹は、あら探しをする人に向かって、小説の中で釘を差している。
図書館にフェミニズム運動の二人組の女が来る場面だ。
そんなつまらない部分にケチをつけて何の意味があるのか、という主張は、
そのまま批判する人に向けられているかのようだ。


そして、ご都合主義という批判に対しては

役割として必然でないものは、そこに存在するべきではない。役割として必然なものは、
そこに存在するべきだ。それがドラマツルギーだ。ロジックやモラルや意味性はそのもの
自体にではなく、関連性の中に生ずる。チェーホフドラマツルギーというものを理解して
おった。(文庫版下巻 p128)

チェーホフを持ちだして予防線を張っている。


というわけなので、私がケチをつける部分は全く無意味なところである。



昔、村上春樹の小説では主人公はサンドイッチは食べるがご飯は食べない、と
揶揄した文章を読んだことがある。


が、「海辺のカフカ」では、うどんやカレーなど、普通に日本人が食べるものが
登場して、うまそうに食べている。


なんだ、当たり前の食べ物を食べているじゃないか、と思ったが、さらに注意深く
読んでいくと、なんか引っかかる部分があった。


それは、「海辺のカフカ」では、登場人物はカップ麺を食べない、ということだ。
別に主人公のすかした少年が食べないのは分かる。
図書館の大島さんや佐伯さんが食べないのも分かる。
が、星野青年はむしろ主食にしてもいいくらいなのに、一切食べる描写がない。


掃除や洗濯が嫌いな自衛隊上がりの若者である。
絶対にカップ麺を食べていないとおかしい。


それに、主人公の少年が高知県の山小屋に行くときに持っていく食料にも、
カップ麺はない。
クラッカーは持っていくくせに。


おそらく、村上春樹カップ麺を小説に登場させたくないのだろう。
その理由は分からないが、健康的でないと思っているのかもしれない。



もうひとつ、登場する固有名詞は、作者の視点なのか、キャラクターの視点なのか、
という問題だ。


海辺のカフカ」にはたくさんの固有名詞が出てくる。
マツダ・ロードスターとかシューベルトとかトミー・フィルヒガーのポロシャツとか。
なんだったら、ジョニー・ウォーカーとかカーネル・サンダーズというアイコン的
キャラクターだって登場する。


一方で、山奥の植物の具体的な名前は一切出てこない。
ブナとかナラとかスギとか。羊歯は出てきたか。
なぜかハナミズキという植物の名前は印象的に登場する。


これらの固有名詞は、キャラクターが知っているから文章に出てくるのか、それとも
キャラクターは知らないけれども作者が知っているから文章に出てくるのか。


田村カフカはクルマの種類には詳しいけれど、植物には詳しくないから、山での描写に
具体的な名前が出ない。なぜなら彼は都会育ちだから。
そう考えてもよさそうである。


しかし、彼はさくらの部屋に入ったとき、

灰皿とヴァージニア・スリムの細長い箱、何本かの吸い殻。
(文庫版上巻 p151)

を見ている。
女性の部屋に入ったとき、すぐにタバコの銘柄が分かるのはなぜだろうか? 


もうほとんど揚げ足取りなのは分かっている。
しかし、田村カフカはタバコに興味はないし吸ったこともなさそうである。
さくらのキャラクターを描写するためには、彼女はヴァージニア・スリムを吸って
いなければならないのは分かるが、ここで固有名詞を出さなくても、とは思う。


ついでに言うと、星野青年だって、トミー・フィルヒガーというブランドを知って
いたかどうか。



その星野青年は、ナカタさんと旅をする間に、フランソワ・トリュフォーの映画を
見たり、ベートーベンの「大公トリオ」を聴くようになる。


聖人に導かれて、頭の悪い弟子が賢くなっていくかのようである。


私はそのあたりがなんだかモヤモヤして、別に頭の悪いままでもよかったのでは
ないか、と思うのである。


というか、トリュフォーの映画やベートーベンのピアノ三重奏曲を理解できるように
なることが良いことである、という価値観が俗物っぽいのではないか、と。


前述の、キャラクターの視点か作者の視点か、でいうと、星野青年だけはブレている
のである。教養のない若者なのに、ときどきスノッブな言葉を使う。そこに作者が
忍び込んでいる。


私はトリュフォーもベートーベンも理解できないだけに、星野青年の言葉にはどうも
しっくりこないのである。



ちなみに私が頭の中に浮かべていた俳優は次の通り。


星野青年 妻夫木聡
ナカタさん 小日向文世
佐伯さん 鈴木京香
大島さん 松本潤


他のキャラクターは、あまりうまく想像できなかった。