病む女はなぜ村上春樹を読むか

これは巻末に収録してある「【附録】村上春樹私小説を書くべきである」を
読むべきであって、それ以前の部分の方がおまけのような気がする。
そのおまけの部分が、ときおり村上春樹批判から寄り道をしており、そこが
面白い。



たぶん、健全な、というかリア充の人は小説とは縁がない。
リア充ではないが、そこそこまともな人は通俗小説やマンガを読む。
純文学にのめり込むような人は、かなり精神を病んでいるのではないか。


だから、純文学がほとんど売れず、10万部売れたら大ヒットということは、
ある意味社会の健全性を示していると思う。


で、村上春樹は通俗小説を書いているのに、純文学を書いているような
扱いを受けているのが解せぬ、と猫猫先生はおっしゃっているのだろう。
なにしろ100万部以上売れているのだから、もし本当に村上春樹の小説が
純文学なら、世の中にはよほど心を病んでいる人がいることになる。


もし本当に村上春樹を支える読者の多くが、メンタル面でトラウマを
抱えているとしたら、ちょっと怖い。



それよりも、猫猫先生は、本書の p139 小説では女ばかりが精神を病む という
項目で

 いったい、なぜ「精神を病んだ女」がトレンドになってしまったのか。実際には
男だって精神を病むわけだが、精神を病んだ男を、女の視点から描くという小説は
あまりない。しいて言えば『ツレがうつになりまして。』があるくらいだが、これは
最近になってあらわれたもので、『ノルウェイの森』や「杳子」では、女は、男を
庇護者たらしめるために精神を病んでいるようにしか見えないのである。

と書いている。まえがきにあった、本書の執筆動機と重なる部分だ。


この指摘を読んで、私は斎藤美奈子の「妊娠小説」を思い出した。
彼女の分類で言うなら「メンヘラ女小説」という系譜が書けるのかもしれない。



庵野秀明宮崎駿を批判したとき、「宮さんはパンツを脱いでいないんですよ」と
言っていた。出典を明記できないのが申し訳ないが、たしか「千と千尋の神隠し」を
見たときのインタビューだったような気がする。


おそらく、庵野秀明は「エヴァンゲリオン」で自分の全てを晒したが、宮崎駿
作品の中でそういうことをしていない、という意味だと思う。


猫猫先生も「村上春樹はパンツを脱いでいない」と言いたかったのではなかろうか。
「パンツを脱ぐ」=「私小説を書く」ということではないかと。


しかし、俺も脱いだからお前も脱げ、というのはちょっと違うんじゃないか、とも
思う。最終的に判断するのは本人で、他人がとやかく言うことでもないかな、と。



【追記】2016年1月28日


1Q84」を読み終えてから、改めて附録を読んでみた。
全編まったくその通りだと思ったのだが、何ヶ所か間違いがあった。
すでに指摘されていると思うので、重版がかかれば訂正してほしい。


p176 12行目
「遂に下の名前の分からない青豆という女」→青豆雅美というフルネームは出てくる

p183 最後の行
「この作中で喫煙するのは、小松だけである」→牛河という男も喫煙している


附録もそうだが、「1Q84」を論ずるとき、猫猫先生はなぜか牛河というキャラクターを
完全に無視している。なぜなのだろう?