今日発売の少年サンデーで藤田和日郎の「月光条例」が終わった。
「うしおととら」でも「からくりサーカス」でもそうだが、なぜか終盤の
畳み掛けるような展開で必ず米軍が登場する。
世界が終わるかもしれないとき、それに対抗しうる現実的な組織は米軍で
ある、という事実を描くことが、ファンタジーをより深いものにできる、
という確信が作者にあるのかもしれない。
↓
「月光条例」はお伽話を少年マンガに持ち込んだらどうなるか、という
作品だった。
そこから、物語とは何か、という問いかけがあり、ついには読み手と
キャラクターの関係が相対化された、ある意味実験的なマンガだった。
マンガの中のキャラクターが、読者に語りかける手法はこれまでにも
あったし、ハリウッド映画でも「珍道中シリーズ」などで同様のことが
行われていた(もっと昔からあると思うが私が無知なだけだ)。
脱線するが、ウディ・アレンの「カイロの紫のバラ」は、映画のキャラ
クターと観客の関係が、ひとつ上の次元にシフトする話だった。
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日本のマンガでいうなら、手塚治虫が当たり前のように自分の描いた
マンガに登場して読者に語りかけている。
ということは、戦後から日本のマンガは物語と読者を相対化する視点が
あったということか。やはり手塚治虫はすごいな。
↓
私がちょっと気になったのは、ラスボスのオオイミ王である。
醜い心を持ち強い、とても悪役らしいキャラクターだ。
彼は月の住人で、地球の物語の消滅を命じるが、実は子供のころから
地球のテレビやマンガが大好きで、ヒーローにあこがれている、という
アンビバレントな心性を持っている。これも非常に優れたキャラクター
造形だと思う。
しかし、なぜオオイミ王がこんなに歪んだ心根を持ってしまったのか、
連載を読んでいても、いまひとつ分からなかった。
最初からそういう人だったのだ、と言われればそうかもしれないが、
ひどいことをするには、それなりの理由があると思うのである。
あの醜さは、物語に淫する我々の姿そのものなのだろうか。
いやいや、藤田和日郎がそんな短絡的なことをするわけがない。
単行本を読みなおして、また考えてみよう。