中学生のときの友達の話をしよう。
仮にTくんとしておく。
Tくんは私のアパートの隣のマンションに住んでおり、人が足りない
からと私を吹奏楽部に誘ってくれた。
私は当時からオタクだったので、「うる星やつら」や「めぞん一刻」の
単行本を貸してあげて仲良くなった。
Tくんはシブがき隊の薬丸裕英に似ていて、学年トップクラスの成績を
誇り、スポーツも得意だった。
バレンタインデーの日の放課後、私はTくんが大きな紙袋を下げて帰宅
しているのを見た。袋にはチョコレートがぎっしり入っていた。
こんなマンガみたいな情景を見たのは、後にも先にもこれっきりである。
Tくんは釣りや野球もやっていたが、ゲームも大好きだった。
NECのPC6001が発売されるとすぐに買ってもらい、自分でプログラムを
打ち込んでゲームを作っていた。
また、親が喫茶店をやっている別のクラスの人から、アーケードの
インベーダーゲームを安く仕入れて自宅に持ち込んでいた。
タダでインベーダーゲームができるというのは、当時の少年の夢だった。
そんなTくんが、任天堂のファミコンを見逃すはずもなく、発売直後に
買っていたと思う。まだテニスとかそういうソフトしかなかった頃だ。
このあたりで記憶はあいまいになる。
私はTくんと同じ高校になんとか入学できた。
そして中学と同じく吹奏楽部に入ったが、Tくんはラグビー部に入り、
ちょいワルな高校生になったので、私とどんどん疎遠になっていった。
Tくんは現役で高田馬場の大学の理工学部に合格し、なぜか就職先は
不動産関係の会社だった。このあたりの消息を風の便りに聞いてから、
完全に音信不通になって現在に至る。
こないだ名前をググったら、子供が二人いる超リア充ライフを満喫して
いるようだった。
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なぜこんなに長々とTくんのことを語ったかというと、任天堂の山内溥
社長が亡くなったのを聞いたからだ。
我々以降の世代は、一度は確実に任天堂のゲームに夢中になっている。
カルチャーを一変させたといってもいい。
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ドラゴンクエスト3が発売されたときは、私は大学生だったので、もう
Tくんとは会っていなかったが、絶対にやっているだろうな、と思った。
私から見たら完璧超人だったTくんが、なぜそんなにゲームが好きだった
のか、今では知る由もないのだが、ファミコン黎明期に新しいカルチャー
に反応した少年は、たぶん全国に無数にいるのだろう。
しかし、宮本茂を越えるような天才はいまだに現れていないのを見ると、
クリエイティブな人を育てるのは、つくづく難しいのだと思う。
そこには山内溥のような名伯楽が必要だったのだろう。
惜しい人を亡くしたものである。