Boaz2013-09-20

中学生のときの友達の話をしよう。
仮にTくんとしておく。


Tくんは私のアパートの隣のマンションに住んでおり、人が足りない
からと私を吹奏楽部に誘ってくれた。
私は当時からオタクだったので、「うる星やつら」や「めぞん一刻」の
単行本を貸してあげて仲良くなった。


Tくんはシブがき隊の薬丸裕英に似ていて、学年トップクラスの成績を
誇り、スポーツも得意だった。
バレンタインデーの日の放課後、私はTくんが大きな紙袋を下げて帰宅
しているのを見た。袋にはチョコレートがぎっしり入っていた。
こんなマンガみたいな情景を見たのは、後にも先にもこれっきりである。


Tくんは釣りや野球もやっていたが、ゲームも大好きだった。
NECのPC6001が発売されるとすぐに買ってもらい、自分でプログラムを
打ち込んでゲームを作っていた。
また、親が喫茶店をやっている別のクラスの人から、アーケードの
インベーダーゲームを安く仕入れて自宅に持ち込んでいた。
タダでインベーダーゲームができるというのは、当時の少年の夢だった。


そんなTくんが、任天堂ファミコンを見逃すはずもなく、発売直後に
買っていたと思う。まだテニスとかそういうソフトしかなかった頃だ。


このあたりで記憶はあいまいになる。
私はTくんと同じ高校になんとか入学できた。
そして中学と同じく吹奏楽部に入ったが、Tくんはラグビー部に入り、
ちょいワルな高校生になったので、私とどんどん疎遠になっていった。


Tくんは現役で高田馬場の大学の理工学部に合格し、なぜか就職先は
不動産関係の会社だった。このあたりの消息を風の便りに聞いてから、
完全に音信不通になって現在に至る。


こないだ名前をググったら、子供が二人いる超リア充ライフを満喫して
いるようだった。



なぜこんなに長々とTくんのことを語ったかというと、任天堂山内溥
社長が亡くなったのを聞いたからだ。


我々以降の世代は、一度は確実に任天堂のゲームに夢中になっている。
カルチャーを一変させたといってもいい。



ドラゴンクエスト3が発売されたときは、私は大学生だったので、もう
Tくんとは会っていなかったが、絶対にやっているだろうな、と思った。


私から見たら完璧超人だったTくんが、なぜそんなにゲームが好きだった
のか、今では知る由もないのだが、ファミコン黎明期に新しいカルチャー
に反応した少年は、たぶん全国に無数にいるのだろう。


しかし、宮本茂を越えるような天才はいまだに現れていないのを見ると、
クリエイティブな人を育てるのは、つくづく難しいのだと思う。
そこには山内溥のような名伯楽が必要だったのだろう。
惜しい人を亡くしたものである。