Boaz2013-05-20

これはいいモノ/コトだから、他の人にも教えてあげよう、という
行為は善意に根ざしている。


では、その行為はどのあたりから押し付けに変わるのだろう? 


例えば、面白い本を読んだから友達にも教えてあげよう、は押し付け
だろうか。
一度伝えただけなら大丈夫だろう。
何度も繰り返して「ねえ、あれ読んだ?」と訊くのは問題だ。
強制的に読ませるのは完全に間違っている。


ということは、ポイントは、相手が受け容れるかどうかは問わない、と
いうところにあるのではなかろうか。
それが守られているうちは、善意であると言える。


問題は、宗教や近代化の場合である。
伝える人が揺るぎなく信じている場合は、受け容れない人がともすれば
愚かに見えるだろう。


もし、本当に素晴らしいものなら、時間はかかるにせよ、多くの人が
受け容れるはずである。
それを急かすから諍いが起こるのだろう。



乙武洋匡入店拒否事件で、あるツイッターの人が、障害者差別はポリ
ティカル・コレクトネスだ。店側の肩を持つ人がいるのが信じられない、
と書いていた。


それはそうかもしれないが、一連の書き込みを読んでいると、米国は
グローバルスタンダードで日本は遅れている、と何度も書いている。
私は胡散臭さを感じた。


政治的正しさというのは、そんなに素晴らしいことなのだろうか? 
米国人の民俗的奇習のように思えるのだが。