食卓は学校である

食卓は学校である (集英社新書)

食卓は学校である (集英社新書)

さいきん「食育」という言葉が使われているが、この本にはその単語が
一切でてこない。そこに筆者の見識を感じる。


最初の方に、イタリア人の話が紹介されている。
イタリア人やフランス人は、一度テーブルにつくと2時間ぐらい時間を
かけて食事をするそうだ。


小さい子供でも、大人と一緒に食事をするときは、行儀よくして大人に
話を合わせなければならない。

「大人だって、それぞれ、なにかしら、会話の弾むような話題を提供しな
ければならないし、そういうときに、違った仕事や経験をしている人から
聞く話は、本当に勉強になるものだよ」


 たしかに、イタリア人のいうとおりかもしれません。十分や十五分でか
きこむランチなら上司の悪口でもいっていれば済むかもしれませんが、二
時間となると、順番が回ってくれば気のきいた話題のひとつも提供しなけ
ればならない。映画や本の感想を語るにせよ、旅の話をするにせよ、自分
の体験を、その場の誰もが興味をもてるように、ときにジョークを交えて
面白く語るのは、そう簡単なことではありません。また、難しい政治や経
済の話題でも、立場や意見が異なる相手を傷つけないようにうまく話をも
っていく技術があれば、食卓の談論をさらに興味深く盛り上げることがで
きるのです。


 食卓を囲んで楽しい人……になるには、それなりの努力や訓練が必要で
す。ただ食欲があればよい、酒が飲めればよい、おしゃべりならそれでよ
い、というわけではありません。


 人間力、というのでしょうか、いわば総合的な人間の器量が試されるの
が食事の場で、
「われわれは小さい頃からそれを食卓で学んでいるのさ」
 というのがイタリア人の主張なのですが、経済は発展しなくても、楽し
く毎日が暮らせればよいではないか、といわれたような気もして、とりわ
け昨今の私たちには、心に落ちるものがあるような気がします。

という部分を読んで、私は合コンを思い出した。


男女が集まって食事をするとき、私たちの世代は話題につまらないように
必ずゲームを始めたものだ。
あるいは、同世代だけが共感する「あるあるネタ」で盛り上がったりした。


このような会話の貧困は、割と上の世代から続いているような気がする。
上司の話が説教になってしまうのも、楽しく会話する訓練が足りないせい
ではなかろうか。


日本で芸人がやたらとモテるのも、彼らが場を盛り上げるプロであるから
に違いない。
(もっとも、あらゆる人におもしろいことを強要するのはどうかと思うが)


結論として、食事は何を食べるかではなく、誰と食べるかだ、ということ
で締めくくられている。
私も、友達と楽しく食事をすると時間があっという間に経つけれど、嫌い
な奴と飯を食うと何を食べてもまずいと感じる。


ここ10年は、ほとんどひとりで食事をしているので、まずくはないが楽し
くもない。
家族や仲間と食事をしている人は幸福である。


玉村豊男は、こんな本も書いている。

世界の野菜を旅する (講談社現代新書)

世界の野菜を旅する (講談社現代新書)

野菜のウンチクが満載で、身近な野菜がどのように伝播していったかが
面白く書かれている。中学の社会の副読本にもってこいである。


さらに、この本が復刻された。

料理の四面体 (中公文庫)

料理の四面体 (中公文庫)

玉村豊男といえば「料理の四面体」である。必読。


それにしても、さいきん玉村豊男は新書をどんどん出しているが、どうした
のだろうか? オファーが殺到しているのか、お金がないのか。
長野の田園でのんびりやっているのかと思ったのだが。