漫才と時代

昨日、M-1グランプリの感想を書いていて気がついたのだが、私が面白いと思ったネタは、全て
店と客の対話だった。


例えば、トータルテンボスの最初のネタはビジネスホテルのフトントと客の会話で、二つ目の
ネタは旅行代理店の男と客の会話である。
優勝したサンドウィッチマンの最初のネタはアンケートをする男と答える男のやりとりで、二
つ目はピザを注文した男と配達してきた男の会話だ。
さらに、キングコングは最初がアパレルショップの店員と客の会話で、二番目が台風レポータ
ーとアナウンサーだった。


サンドウィッチマンのアンケートネタは、厳密には店と客との対話ではないし、キングコング
の台風レポーターネタもそうだ。


しかし、それ以外は全て何らかのサービスを提供する側がボケで、受ける側がツッコミになっ
ている。なぜ、揃いも揃って彼らはこのようなネタにしたのだろうか? 


漫才は時代とぴったり寄り添う芸であり、どんな面白いネタでも、数年経てば風化してしまう。
ゆえに、漫才には古典というものが存在せず、パターンは踏襲しても、常に新しいネタを作り
続けなければならない宿命がある。


逆に考えれば、漫才のネタで多くの芸人が選んでいるネタこそが、時代を象徴しているものだ
と言えるだろう。


ということは、誰もが接客サービスを受けるときに何らかの不快な思いをしており、そこをボ
ケにすることによって笑いにしている、と考えることはできないだろうか。
このパターンの漫才におけるツッコミは、観客の心の声でもあるのだ。


おそらく普通に生活していても、店側の不自然なマニュアルトークや、的外れな親切にイラッ
とする人は多いだろう。
この苛立ちが分かるからこそ、漫才でのトンチンカンなボケに爆笑することができるのだと思
う。


来年のM-1は、どのようなパターンでネタを作ってくるのか、今から楽しみである。