大日本人

いろんな人の意見が出る前に見ておきたかったので、自分にしては珍しく初日に行った。
レイトショーで7割ぐらいの入り。
やはり話題の映画なので、けっこう観客がいた。


ネタバレをしているので隠します。




        


映画ではなく、長いコントだった。


松本人志は普通の人が思いつかない発想ができる。そこは天才と言ってもいいと思う。
今回の映画で北野武監督と比較されているが、残念ながら松本にはインテリジェンスが欠如して
いる。
つまり、北野武は数学の家庭教師ができるのに、松本人志は九九の七の段がきちんと言えない、
という違いだ。


これは学歴差別ではなく、アイデアの最終的な着地点を計算する技術力の問題だろう。
北野武は「暴力と死」を選んで国際的な評価を得た。
一方、今回の「大日本人」はどうだったか。
申し訳ないが、着地せずに終わっていた(画的にもまさに宙ぶらりんだったし)。


つまり、松本人志は最高のコントは作れるけれど、オーソドックスな形式の映画は作れないという
ことだ。
なぜかといえば、本人が今までにない形式のものを作ろうとしているからであり、そういう意図で
制作されたものは、前衛にならざるを得ない。


しかし、前衛というものはモダンの行き詰まりであり、ポストモダンの時代にはすでに時代遅れな
のである。現代音楽というジャンルが、いくら前衛的なことをしようとも、すでにそのジャンルそ
のものが時代とズレているのと似ている。


私がこう思ったのは、「大日本人」の意識的な枠組みが、一歩もテレビから出ていないからだ。
テレビ関係者だけが面白がって作ったものだから、テレビ的な面白さはあるかもしれないが、断じ
て映画ではないと思う。


この作品はテレビの密着ドキュメンタリー風に、絶えず主人公(松本人志)をカメラが追い、しつ
こくインタビューするという形式になっている。
恐らく、テレビカメラに映っている人物は、素のままか演技をしているのか本人も分からなくなっ
ており、そのズレが面白い、という体で撮影したのだろう。
もちろんこれは「働くおっさん劇場」と同じ発想である。


物語では、主人公は高圧電流によって巨大化し、“獣(じゅう)”と呼ばれる巨大生物と戦う設定
になっている。
戦前ぐらいまでは、主人公のように巨大化して戦う人が他にもおり、世間でも尊敬されていたのだ
が、今そんなことをしているのは主人公ひとりで、逆に人々から嫌われている。


自宅にはスプレーで落書きされ、<電変所>と呼ばれる高圧電流で変身する場所に行く途中の道に
は、巨大化して迷惑だ、という看板が至る所にある。
ときどき、家に石が投げられ、窓ガラスが割れることもある。


これは松本人志の心象風景である。


自分はこんなに一般の人々を笑わせている、文字どおり巨大な存在であるにも関わらず、逆にその
一般の人々から下品だとかつまらないとか、いわれなき非難を浴びせられている。
それに黙って耐えている俺はどうなの? と語りかけているのだ。


そして、次々と出現する獣たちは、松本人志が怒りを感じているものを具現化したものだろう。
これらのデザインはとてもよかった。
また、大日本人は嬉々として獣を殺しているわけではない。やるせない気持ちで戦っているのだ、
という描写は、松本人志のテレビでの現場の気分を表していると思う。


ちなみに、観客が最も笑っていたのは、関西から来た獣(板尾)と戦う場面だった。
あそこだけはコントのように会話をしていたからだろう。


主人公にはマネージャーがついており、獣と戦っている場面は深夜に放送されている。
視聴率は悪いらしい。ここで視聴率を言うあたりもテレビっぽい。
巨大化した主人公は、マオリ族のような刺青をしているが、なぜか胸や腰に広告を入れさせられてい
る。
広告の制約のため、大日本人は自由に活動できない、というメッセージは、まさに今のテレビの状況
ではなかろうか。


実は主人公には認知症になった祖父がおり、普段は介護施設にいる。
この祖父もまた巨大化する能力を持っており、現役のとき高電圧をかけすぎてボケてしまったらしい。
なお、主人公の父親はもっと巨大化しようとして限界以上の電圧を受け、早死にしたそうだ。


ところが、このボケた祖父は、ときどき勝手に巨大化して街を壊してまわる。
このことが、さらに大日本人の評判を悪くしているようである。


勝手に巨大化する老人を、なぜ国がケアしないのか。
このあたりの、国の関与の曖昧さは、松本人志が意識する国家のイメージとパラレルなのだろう。
いきなり自衛隊がやってきて、寝ているときに巨大化させられる場面も、そのように見える。
(そういえば、このとき一緒に巨大化したネコはどうなったんだろう?)


物語の終盤になって、謎の赤くて凶暴な獣が突然あらわれ、大日本人はボコボコにされてしまう。
どうやら北朝鮮からやってきたものらしい。
こいつは、これまでの獣と違って、戦いのルールが違う。とにかく強いのだ。
ウルトラマンでいうなら、ゼットンが来たようなものだろう。


主人公は絶体絶命のピンチに陥るが、そこに巨大化した祖父が助けに来る。
ここは素直にすごいと思った。
ま、あっけなくやられるんだけど。


私が理解できないのは、その後の展開である。
まずウルトラマンっぽいヒーローたちがいきなり登場する。
主役っぽいやつ、ウルトラの父っぽいやつ、ウルトラの母っぽいやつ、妹、赤ん坊の5人家族だ。
(米軍のメタファーか?)


そして、これまでCGで表現されていた戦いの場面が、なぜか着ぐるみに変わってしまう。
これの意味が分からない。
完全にこれまで積み重ねてきたリアリティを壊し、ウルトラマンのコントになるのはどういうこと
なんだろう? 
ここまでドキュメンタリー風に描写していたのは何? 
ぶっちゃけ、観客もポカーンですわ。置いてきぼり。

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【追記】
映画というフォーマットをクラシックの交響曲だとすると、第三楽章まではオーケストラで演奏し
ていたのに、最終楽章の最後だけ、ジャズ(というかパンク?)を演奏したような印象がある。
そして、これが今まで見たこともない映画だというなら、そりゃ誰も作らないだろうな、と思う。


恐らく、この終わらせ方は漫才のフォーマットではないか。
「もうええわ」「ええかげんにしなさい」など、突っ込みがバシッと断ち切ることでネタは終わる。
逆に言えば、漫才に大団円はないのである。


じゃあ、この作品は映画と漫才の融合かといえば、全然ちがうだろう。
単に映画の形式を壊しているだけだ。
そういう普通のものは作りたくないというなら、松本人志は映画監督をしなければいい。
なにも映画にこだわらなくても、テレビで面白い笑いをいくらでも作れるのだから。


やはり、松本人志は「言葉の人」であって「映像の人」ではなかった、ということか。

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しかも、エンドクレジットではコントの反省会である。
ここはコントとしては面白かったので笑えたのだが、映画の終わり方としては最悪である。
このオチのために、情報をほとんど公開しなかったのだとすれば、肩透かしもいいところだ。
私が最初に、映画として着地していないと言ったのは、このことである。


もうひとつ、余計なことかもしれないが、獣を倒すときの描写はもっとグロテスクにできたはずだ。
松本人志本人もそうしたかったと思うが、数年後にテレビで放送するときのことを考えて、表現を
マイルドにしたのだろう。
最後の着ぐるみのシーンは、今のテレビではこういう表現しかできないんですよ、という皮肉が込
められていたのかもしれないが、納得できる人はあまりいないと思う。


この作品に10億円かけられたのは、「ガキの使い」や「ごっつ」のDVDが予想を超えて売れたからだ
ろう。いわば、吉本からのご褒美だと思う。
話題作なので、そこそこ客は見に来るだろうが、口コミで評判が伝わるとロングヒットは望めないの
ではなかろうか。


松本人志には、この映画をつまらんというアホがおるのか! という怒りをエネルギーにして、また
新しいコントを作ってほしいものだ。


本文と写真はまったく関係ありません

川*^∇^)||<え? 大日本人‥‥?