古典化

主にクラシック音楽が好きで、ポピュラー音楽をほとんど聴かない人がいた。
私が何かの話題で、あ、この曲はちょうど高校生のときに流行った曲だ、と言ったとき、
彼は「そうか、ポピュラー音楽は時代を刻印するのか」というような意味のことを悲しげ
につぶやいた。


どういうことか。
クラシック音楽は、すでに時の試練に耐えたものだけが生き残っているので、楽譜的には
何百年前と同じものを繰り返し演奏している。


もちろん、時代によって、あるいは音楽家の解釈によって、いくらでも新しいものが汲み
出せるのが古典なのだが、ピンポイントな同時代性は失われている。


いや、あの指揮者のあの時の演奏は今でもずっと心に残っており、そのときのことも思い
出せる、という人もいるだろう。
だが、それはあくまでも指揮者に対するメモリーであって、音楽そのものに対するもので
はない。


そうすると、ポピュラー音楽でも、昔の曲をカバーして歌うことがあるが、そのときもメ
ロディーや歌詞ではなく、歌手に印象が残るのだろう。


当たり前だが、ポピュラー音楽でもクラシック音楽でも、楽譜はずっと残るものである。
つまり音楽の設計図はちゃんと保存されているわけだ。
そうした永続性のある静的なものに、流行はのっていかない。
あくまでも、生きて消えていく動的な人間に対して時代性は宿るのだろう。


ところで、私は20代のころ、よく米国のポピュラー音楽を聴いていたが、最近はとんとご無
沙汰である。むしろ、他のジャンルでも評価が定まり古典化したものの方が好ましく思える
ようになった。


それに、モーニング娘。Berryz工房のような現役パリパリのアイドルの曲を聴いているけ
れど、ピンポイントで何かを思い出すということができない。
どうも、ハロプロの曲と自分の思い出ががっちりリンクされていないような気がする。


要するに、私はどんな音楽を聴こうが、すでに老化して保守的になっているため、すっか
り時代から取り残されてしまったということだ。
そういう人間には、古典化した音楽がよく合うと思う。


本文と写真はまったく関係ありません

日付は去年のものです