音楽を聴く時間

私は高校のとき、友だちに無理やりさだまさしのLP「帰去来」を渡され、是非聴いてくれと
言われた。
しかたがないから兄のステレオで最初から聴いたのだが、途中で寝てしまった。
レコードを聴きながら寝てしまったのは初めてだったので、友だちに悪い気がしたが、LPを
返すときには全部聴いたということにした。


考えてみれば、学生時代は音楽をがっつり聴く時間があったのである。
もちろん、今だってCDを聴くために小1時間ぐらい使うことは可能なのだが、ついついパソコン
の電源を入れてしまう。
そして、サイトの巡回をしながら、パソコンに取り込んだ音源でながら聴きをしている。


こんな態度で、しっかり音楽と向き合えるわけはない。
思えば、感動した音楽と出会えたのは、他に何もせず、その音に集中しているときだけだった。
昨日書いた中山康樹の本の感想で書き足りなかったのは、このことだ。


ところで、いま携帯音楽ツールのシェアはどうなっているんだろう? 
iPod のようなタイプのものが多いのか、それともMDがまだ頑張っているのか知りたい。
というのも、とあるハロプロ関係の音源を聞いていたら、中学生の女の子がMDで音楽を聴いて
いる、という話に対して、ファンが「ええーっ?」と声をあげていたからだ。


その「ええーっ?」には、今さらMDかよ、と揶揄するような響きが感じられた。
彼から見た世界では、ほとんどの人が iPod 的なもので音楽を聴いているのだろう。
だが、本当に多くの人が iPod 的なものに移行しているのか、よく分からないのだ。
ていうか、それは素晴らしい方向に向かっているのかも、疑問なのね。


MDは、まだ辛うじてアルバム単位のメディアだと思う。
どういう曲を入れようが、その一枚にパッケージングされてしまえば、ひとつの作品である。
つまり、CDをまるごと一枚入れようが、お気に入りの曲だけを入れようが、その一枚のMDは
録音した本人の何らかの意図が込められている、と考えられる。


ところが、iPod 的なものは、そういうパッケージ性を最初から拒否しているツールだ。
何百曲も入れられるが、一曲ごとに独立し、トータルでの意味を持たない。
もちろん、全体で見た場合、何らかの意図があるかもしれないが、それは漠然とした好みの集積
であり、メッセージ度は低いと思う。


ほいで、世の中は一枚のアルバムをじっくり聴く忍耐力を失いつつある。
そもそも、ポピュラー音楽の最初のLPはシングル曲の寄せ集めであり、トータルアルバムとい
うコンセプトを考え出したのはビートルズである(たぶん)。


だから、アルバムというのはたかだか40年ぐらいの歴史しかないわけで、また元にもどっている
だけなのかもしれない。
ポピュラー音楽というのは、3分から5分の間だけ聴いている人が気持ちよくなればオッケーなも
のなので、iPod 的なものが出現するのは当然なのだろう。


ここで話は文学に飛ぶ。
いま若者に売れている小説は、ライトノベルが多いのだろうか。
もしそうだとするならば、やはりポピュラー音楽と同様に、読むのに忍耐力のいる小説は敬遠さ
れているはずだが、どうなんだろう? 


それとも、もはや小説を読むことすら特殊なことで、普通の若者は携帯の文字を追っていればそ
れで満足なのかもしれぬ。
内田樹の「下流志向」の等価交換理論でいうならば、自分が忍耐して得られるものの予想がつか
ないのに、わざわざ時間を無駄にすることは経済合理性を欠く、という心理が働いているのだろ
う。


私もさすがに「失われた時を求めて」とか「大菩薩峠」を読んだことはないんだけど、長いもの
にはそれなりの面白さがあることは経験的に知っている。
オッサンが言えることは、学生時代になるべく忍耐力をつけといた方がいいよ、ということだけ
だ。さよなら。


本文と写真はまったく関係ありません

ノリo´ゥ`リ<このアルバムのコンセプトは、そのままの小春☆カナ