- 作者: 町田健
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/12/18
- メディア: 新書
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たぶん、頭のいい高校生なら、これを読んで大学で言語学を勉強しようかな、と思うのでは
ないだろうか?
ソシュールが主張した、言語学の公理というべきものは
1.コトバは記号であり、シニフィアン(表示部)とシニフィエ(内容部)に分かれる
2.記号の表示部と内容部の関係は恣意的である
3.コトバを構成する同じ種類の要素(音素・単語の意味など)は体系をなすこと
4.要素が並んで使われる場合には構造を作ること
だそうだ。
こう書くと難しそうだが、この本では噛んで含めるように丁寧に書いてある。
中盤から後半にかけて、ちょっと分かりにくくなるけれど、根気よく読んでいけば理解できる
と思う。ていうか、私は理解できているか心もとないけどw
なんで、これを読もうかと思ったかというと、塾で
「センセー、方言ってなんであるん?」
と質問され、うまく答えられなかったのを覚えているからだ。
本書でも
人間のコトバがどうして地域や民族によって異なり、どうして時間が経過すると自然に変化して
しまうのかという問題は、文の構造を決定する原理の探求にもまして解決するのが困難な問題です。
コトバが同じ事柄を話し手から聞き手へと伝達する手段なのだとすれば、地球上に存在するすべて
の人間がまったく同じ言語を使っていたほうが、それぞれ異なった言語を使うよりも、コトバ本来
の目的をはるかに効率的に達成することができるはずです。
と書かれている(p210)。
いちおう、なぜそうなっているのか、という説明はあるのだが、まだ誰もが納得できるような結論
が出ているわけでもないみたいだ。
ここからは、私の頭の悪い妄想なのだが、人類がコトバを使って意思を伝え合うようになったのは
いつごろだったのだろうか?
コトバを使える集団が何万年もかけて世界中に散らばっていったのか、それとも散らばった先で
コトバが使えるようになったのか、どちらなのか、という疑問がわく。
世界には多く見積もると8000種類ぐらいの言語があるらしいが、そんなにバリエーションがある
のは、最初に小さい集団だけで使っていたからではなかろうか。
そんで、強いところに滅ぼされて、言語的にも統一されていったとか。
日本語に限れば、ある時期にいまに通じるコトバの構造を持った部族が、周辺の別のコトバを
使う部族を滅ぼしていった結果できたのか、それとも日本列島にたどりついたときから、すでに
ベーシックな日本語は成立していたのか、謎だ。
(それとも、私が無知なだけで、とっくに分かっているのかも)
柳田國男の「蝸牛考」のように、中心から周縁に広がっていった、という説もあるけど、これも定説
ではないらしい。
方言というのは特定の地域で使われるコトバなので、人の移動があまり頻繁でない時代に成立したと
思う。
奈良・平安時代でも、貴族のような行政官は移動していただろうが、ほとんどの庶民は一生おなじ
場所で生活していただろう。
そこで、地域によって様々なバリエーションが発達して、方言になったのではないか、と考える。
だが、北海道の場合はどうなのか、と余計なことを考える。
江戸時代まではアイヌの人しかいなかったはずで、明治時代になってから大量に移民した地域で、
なぜ北海道弁が成立したのか、よく分からない。
いろんな地域から集まってきた人が、お互いに通じるコトバとして北海道弁を選んだのだろうか?
それとも、東北地方の方言の影響を受けて、いまの形になったのか‥‥
以前、ブラジルに行ったときに、移民1世の方とお話する機会があった。
そうすると、長野なら長野、広島なら広島の方言が、実にきちんと保存されていて驚いた。
考えてみると、同郷の人たちが移民した場合、日本語で会話するときは方言で、他はポルトガル語
だったのだろう。日本の放送が手軽に視聴できる時代ではなかったろうし、変異する要因がなかった
と言える。
世代が下るにつれて、日本語よりもポルトガル語の方がより使うために、だんだん話さなくなって
しまい、3世や4世になると、よほど意識しないと日本語を話さないのではないか。
100年近く前の真空パックされた方言は、1世の方が亡くなっていき、どんどん消滅しているのだろう。
私が話す伊予弁も、すでに上の世代に比べると薄れてしまっている。
小中学生になると、テレビの影響か、さらにマイルドなイントネーションになっており、味のある
表現はなかなか見られない。
では、情報・通信の発達によって方言はなくなるかというと、そうでもないみたいだ。
話し言葉はかなり保守的なのではないかと思うので、親の世代がうっすらとでも伊予弁を喋って
いれば、子供も伊予弁になっているし、共通語とのハイブリッドとして生き残るような気がする。
その一方で、2ch語のような新しい方言も生み出されており、流行り廃りはあれど、瞬時に伝播して
いる。ただ、これは基本的に発音されるコトバではないので、かつての候文のように時代が変われば
なくなる可能性もある。
実は、人間はひとりひとり厳密に言うと違うコトバを使っていて、お互いに意味が通じる、ゆるく
束ねられたものを言語と呼んでいるのかもしれない。
完全に通じるか、まったく通じないかのデジタルなものではなく、思ったことの6割ぐらいが伝わる
ようなアナログなツールなんじゃないかなーと思うですよ。
そういう、ゆるーいものだから、いろんなバリエーションができやすいし、過酷な条件下でも意味が
伝達できるんじゃないか、と。
わけのわかんないことを書いてしまいました。すいません。
本文と写真はまったく関係ありません
从*・ 。.・)<(えり だいすき)‥‥書けたの
从*^ー^)<分かった! 「えび たいやき」でしょ? もー、さゆの食いしん坊!