日本語は敬語があって主語がない 「地上の視点」の日本文化論 (光文社新書)
- 作者: 金谷武洋
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/09/17
- メディア: 新書
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「好き」
とひとこと言われたとしよう。
もし、ここで女の子に対して
「誰が誰を?」
と聞き返したら、どれだけ鈍感な奴か。
日本語の文法では、動詞だけでかまわないのに、英語では
“I love you.”
と言わなければ文法的に正しくない。
“love”
だけではダメなのである。
ちなみに
“I love you.”
と言われたら
דMe, too.”
○“I love you, too.”
だそうだ。
“Me, too.”だと、僕も愛されているんだね、という意味になるとか。
それはともかく、主語と動詞と目的語があって成立する英語と、動詞
だけで用が足りる日本語があるわけだが、日本語の文法と英語の文法
は視点が違うのだから、同じように論じてはいかん、というのが筆者
の主張である。
視点の違いとは、日本語は話し手の目線が地上にとどまって、相手と
一体になっているのに対して、英語は上から客観的に見下ろすような
目線で文法が成り立っている、ということだ。
分かりやすい例として、川端康成の「雪国」の冒頭がどう翻訳されたか
解説してある。サイデンステッカーは
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」を
“The train came out of the long tunnel into the snow country.”
と訳しているが、日本語にはない The train を主語にしないと翻訳で
きなかったようだ。
ふつう、日本の読者なら、冒頭の文章は作者の視点で読むはずである。
自分が列車に乗っていて、長いトンネルを抜けたら雪国に入った、と
イメージする。
ところが、この翻訳では、外から列車を眺めて、トンネルから出たと
ころを鳥瞰しているようだ。
こうした視点の違いが、思考の違いを生み出している、というふうに
つながっている。
つまり、言語は思考に影響を与えるという、言語相対性論が語られて
いるのだが、それは本当に正しいのかどうかで、この本の読み方は変
わってくると思う。
後半になると、ちょっとトンデモ説かな、と思うところもあるので注
意が必要だ。