目蒲線

私が上京して最初に住んだのは、東急目蒲線武蔵小山駅から徒歩5分のところ
だった。
なんでそこに住んだかというと、単に家賃が安かったからだ。
87年当時で一ヶ月16000円、4畳半・共同トイレ・共同炊事場である。
当然だが、風呂はない。ここに2年住んだ。


ほぼ毎日、通学で目蒲線に乗ったが、緑色のちいさな電車で、のんびりしたいい雰囲気だった。
私の田舎には、伊予鉄道路面電車が走っていて、一両編成だった。目蒲線は二両編成(三両?)
だったので、乗っていて安心感があった。
安心感というのも変だが、10両編成の山手線を初めて見たときは、こんなに長いのか! と
田舎モン丸出しで驚いたのである。


西荻に引っ越してからは、一回乗っただけで今に至るのだが、先月だったか「タモリ倶楽部
を見ていたら、目黒線武蔵小山駅地下化工事現場をロケしていて驚いた。
えっ、あの駅はなくなってしまうのか。


というよりも、目蒲線目黒線になったことすら知らなかった。もう、あの緑色の電車は
見られなくなったのか、と思うとくやしい。写真に撮っておけばよかった。
ネットで検索するとたくさん見つかったのだが、ここで紹介できないのが残念だ。
こういう気持ちが高ぶると鉄ヲタになるのだろう。


武蔵小山には巨大なアーケード街があった。
私の田舎にも大街道というアーケード街があり、そうか東京でも似たようなものがあるんだ、
と思ったが、武蔵小山の方が歴史があるのだった。
奥の方にあったオリンピックというスーパーは、今でもあるのだろうか? 


そういえば、テレビでYMO再結成か何かの番組に、細野晴臣が出演したことがあった。
そのとき「子供のときなりたかった職業は?」という質問に「目蒲線の運転手」と答えている。
私は、電車の一番前の運転席が見えるところにしがみついている少年時代の細野晴臣を想像し、
なるほどな、と思った記憶がある。


私が武蔵小山のアパートを引っ越すきっかけになったのは、共同トイレに同性愛者の雑誌
「さぶ」が置いてあったからだった。
ホモセクシュアルな人に対する差別と偏見に基づいた判断だと思うが、当時の私はただ
怖かったのだ。


その後、99年ごろに一度だけ友だちと武蔵小山を訪れたことがある。
当時のアパートや管理人がいた靴屋はすでになく、噴水のある公園になっていた。
アパートは緑風荘という名前だった。
目蒲線の色にちなんだのだろうか。