欲望の開放

この本には

「人々が自分の欲望を解放する自由(これを恣意性の権利と呼ぼう)は、他人の恣意性の
権利を不可避に侵害しない限り、保護されねばならない。但し、恣意性の権利は能動的
なものに限られる」


恣意性の権利の保護で私が最も強調したいことは、恣意性の権利は能動的なものに限られ
受動的な権利はないという点である。人は、他人を愛する権利、他人を無視する権利、
アホなことをする権利を有するが、他人に愛される権利とか、ちやほやされる権利とかは
ないのである。

とある。


人は互いに平等だ、ということが守られるならば、他人に迷惑をかけない限り何をやって
もいいじゃないか、という話で、最終的には修正リバタリアニズムあるいはアナルコ・
キャピタリズムがいいのではないか、ということになる。


リバタリアニズムは、個人の精神的自由と経済的自由を至上とし、極力、国や権力の
介入を阻止しよう、という立場だ(筆者は、経済にはある程度の介入が必要、とする)。
アナルコ・キャピタリズムは、無政府資本主義のことで、国家を解体し、裁判所も
警察も刑務所も民営化すべし、という立場だそうだ。そんな無茶な。


思考実験のような内容の本なので、断片的なことを批判してもしょうがないけれど、
あんまり後味がよくない。実現は絶対に不可能だからだ。


で、私は読みながら別のことを考えていた。
倖田來未のことである。


彼女は、女性の性欲を上手に解放しているように見える。少なくともエロかわいいと
いうのは、そういう戦略で売っていることだろう。
どっかで見たことがあるなぁ、と考えていたら、80年代にマドンナがやっていたことと
同じではないかと気づいた。


じゃあ、米国ではその後どうなったか? ちゃんと調べてないから分からないけど、
印象としては、極端にセクシーになるか、保守化の二極分化になったのではないか。
日本がそうなるかどうかは、まだ分からない。宗教とか伝統が違うし。


ただ、オッサンの立場で思うのは、女が野獣化したら、男は確実に引く。
もちろん、がっぷり四つに受けて立つタフガイもいるだろうが、普通の男は引くと思う。
だから、戦略としては、ナチュラルかつセクシーという路線になるんだろうけど、それが
モデルのエビちゃんなのか? 


そもそも、なんで長い間、男は女の欲望を封じてきたのか。
社会が無秩序(アノミー)になることが分かっていたからではないかと思うのだが、
それ以上は、私にはよく分からないのです。