*[映画]荒野のコトブキ飛行隊 完全版

ほとんどの人が「鬼滅の刃」を見ているなか、もうすぐ終了しそうなので
「コトブキ」を見てきた。観客は6人ぐらい。


TVシリーズを濃縮して2時間にまとめているので、テンポも良くて面白かった。
もしTVシリーズを見てない人も、これなら満足すると思うし、TVシリーズ
あまり評価しなかった人も、「コトブキ」ってこんなに良かったんだ、と
再評価するはずである。


個人的には、チカってこんなにいいことを言うキャラクターだっけ、と
見直した。


悪役のイサオは、あらためて大阪維新の会みたいなキャラクターだったな、と。
住民投票前に公開したのは偶然だろうけど、ああいう人に騙されることの
ないようにしたいものだ。

コミックナタリーに週刊少年サンデー編集長のインタビュー記事が

掲載されていた。

natalie.mu私は40年近くサンデーを購読してきたので、今の編集長になってから

内容が良くなってきたのは認めるけれども、まだまだ厳しいと思う。

 

そもそも、なぜ少年サンデーの編集体制がガタガタになってしまった

のか。その原因をはっきりさせないと、編集長が交代したとき、

同じことが起きるだろう。

「長年にわたる低迷の中で『サンデー』というマンガ編集部の

“風土”や“文化”と言うべきものが壊れ、失われてしまった」

と言っているが、低迷が原因ではなく、無能な人が編集長だった

からだとはっきり言うべきだった。

 

その詳細をいまの編集長語ることはできないと思うが、インタビュアーも

もっと突っ込んだ話をするべきだった。

例えば、久米田康治鈴木央がマガジンに移籍して大ヒットを飛ばして

いますが、なぜよそに行ってしまったのですか、とか。

 

ブランドということなら、いまのサンデーは三陽商会のようなもの

ではないか。もし「名探偵コナン」というバーバリーが終了して

しまったら経営破綻するだろう。

 

その点、ジャンプとマガジンはとにかく作品をアニメ化している。

アニメ化できる玉を持っているということでもあるが、サンデーは

そこができていない。

 

ここ2年ぐらいの新連載を見ても「葬送のフリーレン」ぐらいしか

当たりがない。ショートギャグが目立つということは、雑誌の軸が

弱いのである。

 

小学館に入社して編集者になれるのは、ものすごい倍率をくぐり

抜けた精鋭のはずだが、実は適当に面接していたのだろうか。

違うというなら、紙面で証明してほしい。

 

大阪維新の会というのは、

腎臓が2つもあるのは無駄だから1つ売りましょうよ、

と唆す詐欺師のようなものです。

その気になって1つ摘出して体の具合が悪くなったと

しても、それはあなた自身が判断したことでしょ、と

自己責任にされてしまいます。

さらに言えば、腎臓を売りましょうよと言った本人は

絶対に自分の体を傷つけたりしません。

 

まあ、私がこんなことを書いても、痛い目に遭わなければ

騙されたことに気がつかないでしょう。

大阪のみなさん、いちど滅んでください。

*[本]街道をゆく21 神戸・横浜散歩 芸備の道

中国紀行がボリュームもありやや重かったのに対し、21巻は気軽な旅で
あっさりと読めた。


「芸備の道」では、広島県の三次まで出かけている。
あるお寺に行ったとき

無数にしだれた枝から雨水が糸のようにしたたっていて、葉桜とはいえ、
十分風情があった。その根本に立札が立っていて、


赤穂浪士
大石良雄
手植の
 枝垂桜


と、四行にわけて書かれていた。立札の脚には「三次市役所」とある。
市の教育委員会もその史実がないことは知っているにちがいないが、
大石が三次に来ようと来まいと、歴史の根幹にかかわるものではないから、
伝承のほうを重んじているのであろう。器量人の態度といっていい。


 ただ一説があって、この伝承は古いものではなく、昭和初年に創作
されたものだという。市の商工会議所の人が、三次にはこれという
観光資源もないから、鳳源寺境内に古いしだれ桜があるのを幸い、
あれを大石良雄の手植にしてしまえ、ということであったというのである。


 これも来歴としておもしろい。ただし、その創作のいきさつの
ありのままを説明板に書くほうがいい。昭和初年当時、すでに
観光資源の開発という思想があったことがわかるし、それに
当時の観光資源というのは、中世末期に高野聖たちがさかんに
つくってまわった弘法大師の奇蹟の場所と同様、そのたぐいのもの
であったということもわかるのである。さらに当時は、史実よりも
伝承のほうが重んじられたということもわかっていい。『古事記
日本書紀』に書かれた“神代”の伝承が、そのまま「国史」として
小、中学校で教えられていた時代なのである。
(p131-132)

なんだか「椿井文書」を思わせるような偽の史跡だが、現在は
どうなっているのだろうか。

*[映画]劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン

古き良き日本映画の伝統を受け継いでいるのは、実は京アニではなかろうか。
難病の少年とか、雨の中で号泣する女性とか、かつてモノクロの邦画で定番
だったものがストレートに描かれている。
もし実写だったら古臭い手法に見えてしまうかもしれないが、美しいアニメ
だとそれが分からなくなる。
1950年代の邦画(特に松竹)に詳しい人なら、いくつも類似点を指摘できる
のではなかろうか。


初見の人にも分かるように、序盤でTVシリーズのおさらいを挿入しつつ
泣けるエピソードを挟んでクライマックスに持っていく、安定のシナリオと
演出だったと思う。
しかも、TVシリーズ屈指の泣けるエピソードである亡き母親からの手紙の
話を折り込み、時系列を巧みに操る脚本は神業と言えよう。


エンドロールで、犠牲なったスタッフの名前を見ると、これからの京アニ
心配になってくるが、再び傑作を世に送り出せることを信じて待ちたい。

米国のギンズバーグ最高裁判事が亡くなった。

これでリベラル派の判事が減って、トランプ大統領が保守派を

任命するらしい。

リベラルと保守のバランスが、という話の前に、そもそも判事が

リベラルか保守かで判決が違うのはどうなんだろう? 

これは法律を解釈する人間のバイアスを認めていることになる。

判事の最終的な正しさを担保するものは何なのだろうか。

 

米国は分かりやすくリベラルか保守か明らかにしている。

日本はどうなのか。たしか安倍政権のときに大幅に保守派を

指名したという記事を読んだことがある。というか、そもそも

リベラルはほとんどいなかったのか。

他の国はどうなっているのだろう。

 

結局、裁判官のお気持ち次第で解釈が大きくぶれるのであれば、

その制度には欠陥があるのではなかろうか。

むしろAIに裁いてもらった方が公平なのでは、と思うのだが、

それは危険な考え方なのだろう。

 

*[本]性格とは何か

心理学でいうパーソナリティを解説した一冊で、私にとってはやや
難しかった。統計を学ばないとちゃんと理解できない気がする。


ただ、世間一般で語られる血液型や星座のような類型はあまりにも
雑だし学問ではない。
心理学では、ビッグファイブと呼ばれる5つの次元で分析している
そうだ。RPGの「すばやさ」とか「ちから」などのパラメーターの
ようなものか。


この分析方法で統計処理すると、国や地域によって違いが見られる。
なぜそのような違いが見られるかは明確に断定はできないが、それが
偏見や差別に利用されることもある。気をつけたい。

 もうひとつの関心は、世の中全体に情緒不安定的で活発さに欠け、
自尊感情が低下するような変化が起きたとき、そこから何が起きる
のかという問題である。


 人間は基本的に、ポジティブな自己認識をもちたいと動機づけられる
ものである。自分のことを悪く言われるよりは褒められたい。無視
されるよりは認めてもらいたい。劣った人間だとみなされるよりは、
優れた人間だと思われたい。このような気持ちは、多くの人がもつ
ものではないだろうか。


 日本全体がこのような状態になったときに生じるひとつの現象が、
「日本はすごい」と思いたい気持ちなのかもしれない。日本は常に
海外から注目を集めており、日本はアジアの中でも特別で、日本は
ほかの国にない技術をもっており、日本の自然はほかの国にはない
美しさがある……。いつからか、テレビ番組の中でこのような
メッセージが増えてきてはいないだろうか。


 ここでは存在脅威管理理論という考え方が、興味深い洞察に
つながると考えられる。私たちは、死を避けることはできない。
この死を避けることができないという事実は、私たちに脅威を
もたらす。その脅威を和らげるために、人は宗教や芸術などを
拠り所にしようとする。そして自尊感情を高めることも、死の
脅威を和らげることにつながる。(中略)


 ところが、日本人全体の自尊感情だけでなく全体的にポジティブな
自己認識は、なかなか高まってくれない。それはおそらく、私たちの
文化の中に、ポジティブな自己認識を高めるような仕組みが不足して
いるからではないだろうか。(中略)そこに輪をかけて、経済を
中心とする社会的な停滞が襲いかかってきた。


 そんな私たちが死への恐怖に直面すると、何が起きるのだろうか。
そこでは、自尊感情以外に死の恐怖を和らげる仕組みが必要になる。
そのひとつが、自分自身をより大きな枠組みと同一視することである。
そして、その大きな枠組みへの優位性を主張することで、自尊感情では
まかないきれない脅威への対処をしようとする。それが「日本はすごい」
また「他国よりすごい」(中略)という思いになり、さらにそこから
「他国は日本よりも劣っている」「日本を批判するなんて許せない」
という認識へとつながってはいないだろうか。


 もしかしたら、多くの人々が死への恐怖に直面させられた東日本
大震災以降に、日本のすごさを喧伝するテレビ番組が次々と作られて
いったことも、このことを反映しているのかもしれない。そうだと
したら、それは、自分たちを安心させ、心地よくさせるための
ひとつの反応なのだろう。(p144-146)