- 作者: 大江健三郎,加藤典洋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1988/04/04
- メディア: 文庫
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そこから見る景色は、読んだ人でないと分からない。
そして、私は一つのルートを辿って山を登り終えたが、この小説には読む人
ごとにルートがあり、山の全貌を知るのは素人には不可能なように思える。
それほど豊かな内容の小説だ。
といっても、冒頭の部分は何を書いているのかよく分からず、ここを乗り越え
ないと面白くならない。
終盤は、数行先に何が書いてあるのか予測できないほどスリリングで、約50年
前に出版された小説なのに、普通に面白い。
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だが、私は登場人物の誰にも感情移入できず、取っ掛かりがないまま読み進めた。
なぜこの人たちは、日常の会話でも相手をねじ伏せようとしているのか、悪意や
攻撃性を露わにしているのか、よく分からなかった。
インテリというのは、常にギスギスしているものなのだろうか。
だとしたら、私は平凡な人間でよかった。
もちろん、普通の人にだってそういう部分はあるのだけれど、それを自分のこと
として受け止めるには、文学的な訓練が要るのではなかろうか。
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私は愛媛県で生まれたので、小説にある方言はわりとリアルに再現できた。
「〜ですが!」というのは、おそらく大江健三郎の生地の内子町あたりの言い方
だと思う。
松山だと「〜ですがな!」という語尾になるのではないか。
そういえば、蜜三郎と鷹四は兄弟なのにお互いに方言では喋らない。
一度田舎から脱出できた人は、もう方言では喋らないというルールを設定して
いるのかもしれない。
しかし、蜜三郎はともかく鷹四は、谷間の青年たちを扇動するのだから、彼らに
対しては方言を使ってもよかったのでは、と思う。
いや、標準語だから指導者になれたのだ、という反論があるかもしれないが。
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ちなみに、松山東高校では文学作品として、夏目漱石を読むことを奨励している。
大江健三郎の作品を推薦されたことはないように記憶しているが、ノーベル賞を
受賞してからはどうなのかは知らない。
高校生の国語から、性的なものを排除しているから、谷崎潤一郎と同様にほとんど
触れられずに終わっているような気がする。
もったいないと思うが、純文学を読む人は勝手に読むだろうし、学校教育とは関係
ないのかもしれない。
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この小説を読む前に、筒井康隆の「万延元年のラグビー」を読んでいたので、私は
いつ鷹四か蜜三郎の首が谷間の青年たちによって蹴り転がされるのかと予想してドキ
ドキしていた。
それに、フットボールはサッカーのことだと勘違いしていたが、Wikipedia の英文を
見るとアメリカン・フットボールのことらしく、果たして1960年代の愛媛県の田舎の
青年がそんなスポーツに興味を示したのか、疑問だ。
なぜ、もっとポピュラーな野球にしなかったのか。
きっと、ちゃんとした理由があるからだろうけど、そのあたりのことは偉い人が解説
しているのだろう。
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ところで、これは誰も映画にしようとは思わなかったのだろうか?
それとも、企画されても作者の了承が得られなかったのか。
誰かチャレンジしてほしいものだが、たぶん採算がとれないだろうな。