街場の読書論

街場の読書論

街場の読書論

私はほとんどの本をトイレで読む。
その際、便通が良くなる本とそうでない本がある。
この本は便通が良くなる本だった。


本の内容と便通とに何か関係があるのか分からないけれど、私に
とってはどうもそうらしい。


基本的にブログに書かれたものを再録している。
ひとつひとつに初出の年月日が記載されていて、昔のものほど毒
があるというか、言い方がきついような気がする。


一ヶ所、おっと思ったのは「補稿 『世界の最後』に読む物語」で

 そして、時代小説(に限らず中間小説や大衆小説)が純文学をしりめに
隆盛を極めているのは、そこに批評家がいないからである。「この小説が
面白い」と言って、「ぜひ読みなさい」と必死に勧める書評家はいるが、
「こんなものは小説ではないから読むべきではない」と言って腐すような
人間はいない。なぜこの小説はこんなにつまらないのかというような分析
に知的資源を投じる批評家はこの領域にはいない。


 そういう連中がいるのは純文学だけである。そして、彼らが純文学を
ここまで萎縮させてしまったのだと私は思っている。(P 400)

と書いてあった部分である。


すいません、内田先生。
私は「山田悠介がなぜ面白くないのか」というブログを書いて
しまい、けっこうアクセス数を稼いでしまいました。


でも、たしかにライトノベルなどに変な批評は必要ない。
売れているのは何か面白いものがあるからで、イチャモンを
つけてはいかんのだろう。