響 小説家になる方法

猫猫先生の「純文学とは何か」という新書の帯に使われていたので
興味を持って単行本を買ってみた。
15歳の女子高生が芥川・直木賞をダブル受賞するというマンガみたいな
話だった。マンガだが。


物語の構造は、私の読んだマンガに当てはめれば「ガラスの仮面」に
近い。響が北島マヤで凛夏が姫川亜弓で涼太郎が速水真澄である。


ただし、キャラクターがみんな歪んでいる。
なぜあんなにマウントをとりたがる人が多いのか不思議なのだが、
響の暴力性を際立たせるために、わざとそうしているのかもしれない。


このまま物語が進むとしたら、響はあまりの才能に飲み込まれて、
破綻するしかないと思う。涼太郎はそれを恐れているのだろう。
というよりも、このマンガの作者自身がそうなりつつあるのを、
7巻から8巻の絵の荒れから感じる。


実写映画化されるそうだが、はたしてどうなることやら。



今まで音楽の天才を描いたマンガはいくつかあって、劇中でそれを
表現するときは、読者に想像させていた。
マンガは音が出ないのでそうせざるを得ない。


だが、小説を扱ったマンガでもこの手法を使うとは思わなかった。
劇中で響の小説の文章が読者に示されることはない。
どういう作品かはほのめかされるが、具体的な文体とかは今のところ
出てきていない。
登場人物が読んで打ちのめされるのを見せることで、すごい小説だと
表現しているのである。


グルメマンガやスポーツマンガだと、実際に料理や技を描かない
わけにはいかないから、この手法は使えないのだが、小説なら
いけると証明している。画期的なことかもしれない。



気になるのは、平凡さの嫌悪である。
2巻に中原愛佳という30歳の作家が出てきて、響の小説に打ちのめされて
書くことをやめるエピソードがある。
そのとき、彼女の平凡だが幸せな未来がナレーションで語られて終わる。


この処理の仕方に、なんともいえない悪意を感じた。
主人公の鮎喰(あくい)という名字はそこから来ているのか、と勘ぐった
ぐらいだ。


それ以降も、平凡な人の愚かさみたいなものが主に加代子というキャラクター
によって描かれる。


中二病か、と切り捨てることは簡単だが、その中二心があるからこそ、
この作品は面白いのだろう。


当たり前だが、作者以上に頭のいいキャラクターを作品には出せない。
天才を描くマンガで、どのあたりに着地点を見つけるのかは、これからの
展開しだいだろう。