国際共通語としての英語

国際共通語としての英語 (講談社現代新書)

国際共通語としての英語 (講談社現代新書)

好奇心から英語を学びたい、あるいは仕事上どうしても英語が必要、と
いう人がいる。
その一方で、英語が母語の人だけが優越的になれる英語帝国主義は何と
かしなければならない。


この問題をどうにかしようと取り組んだのが本書だと思う。


これまで、英語を学習することは、英語圏の文化も同時に学ぶことだっ
た。日本でも鹿鳴館時代から基本的には変化がない状態だった。


しかし、英語を学ぶことは英国人や米国人になることではない。
言語をスイッチしたら違う人格になる、という人がいるかもしれないが、
それは間違っていると思う。


もはや英語は、英米人のものではなく、お互い母語では話が通じないか
らしかたなく使う人たちのものである。
(私もブラジルの空港で大韓航空のカウンターに並んでいる韓国人と英語
で会話したことがある)


なので、英米人が「私たちはそんな言い方はしない」とか「発音が変だ」
という声は無視してかまわない、と本書は述べている。
そうではなく、ここを外したら話が通じなくなるという核(コア)を発見
して、それを教えるべきだ、と。


つまり、the や a などの冠詞の使い方や、r と l の発音の違いなどは、
とりあえず違っていてもかまわない。
もちろん正確に使えるにこしたことはないけれど、正確さにこだわって
委縮するよりは、どんどん話をした方が生産的だ、ということだ。


ここからは私の勝手な解釈になるが、日本人は英語ができない、とイラ
ついているのは基本的に企業経営者だけである。


ほとんどの日本人は、英語の読み書きができれば便利になりこそすれ、
別にできなくても生活に不自由しない。
だから必要にせまられないと勉強しないのだ。


そうすると、経営者たちは自腹で社員を教育しなければならず、コスト
がかかる。使えねーなー、とイラつく。
悪者を学校にしておけば、自分たちが苦労することもなく日本人の尻を
叩くことができるわけだ。


英語ができない奴は採用しないよ、と言えば、学生は必死になるだろう。
それで仕事ができる人が採用できるかは疑問だけれど、それは各企業が
勝手にやればよろしい。


しかし、教育に口を差し挟むのはやめていただきたい。
たかが(と敢えて言ってしまうが)商売のために、小学生から英語を
教えるようにしたことを後悔する日が必ず来るだろう。


「ゆとり」世代の次は、どういう名前で呼ばれるのか、生きているうち
に確かめたいものだ。