イマジナリー・フレンド

先日の「デスパレートな妻たち2」を見ていたら、物語の中に“イマジナリー・フレンド”が
登場していた。


イマジナリー・フレンド、つまり想像上の友だちである。
欧米では子供の幼少期によくみられる現象だそうで、目に見えない誰かと会話したりするのだ
そうだ。
ほとんどの場合は、成長するにしたがって消えてしまうらしい。


ベビーシッターに子供を預けて外出するような習慣がある米国では、子供は寂しいからそのよ
うな想像上の存在を創り出すのだろうと思う。
日本にはどのくらいイマジナリー・フレンドを持っている子供たちがいるのだろう。


ぬいぐるみに話しかけたりする子供はたくさんいるだろうけれど、全く何も《拠りしろ》がない
状況で会話するというのが不思議だ。


世の中には寂しい子供もいれば、寂しい大人だっている。
だが、大人の場合イマジナリー・フレンドがいることがバレたら大変である。
だから、誰にも知られないようにしている人たちもいるだろう。


社会生活に影響がないなら、私はイマジナリー・フレンドを持つことは別に悪くないと思う。
なんならイマジナリー・ガールフレンドやイマジナリー・ワイフを持ったってかまわないだろう。


例えば、いいオッサンがアイドルを好きになるというのは、イマジナリーな女の子と現実の女の
子の中間で寂しさを解決していると言えよう。
もちろん、アイドルでなくとも二次元の女の子だってかまわない。


日本には、米国のような強烈なカップル文化の圧力がないから、このようなオタク現象が発生
しているのかもしれない。
しかし、米国にだってモテない男や女はいるだろうから、彼らにとってはオタク文化は大きな
福音になるのではなかろうか。


それこそ、幼少時にイマジナリー・フレンドを持っていた米国人が、大人になってもイマジナ
リーな何かをキープすることで精神的な安定をはかれるなら、これほど便利なことはない。
疾病利得というやつである。


携帯やパソコンなどのネット上でイマジナリーなつながりを求める人も多いだろう。
きっとIT革命は、寂しさを世界中にばら撒いてしまったのだ。