田舎とクルマ

松山市で社会人がクルマを持たないのは、まともではないらしい。
私がまったく運転しないと言うと、原始人でも見るような目つきをされる。
松山でクルマを使わないのは、靴を履かずに歩くようなものだ、とさえ言われたこともある。


しかし、普通に生活していたら、別にクルマなんてほとんど必要ない。
通勤も、よほど遠距離でなければ自転車で十分である。雨の日は困るけれど、そのときは公共の
交通機関などを利用すればよろしい。


そうすると彼らは、クルマがないとモテないと言う。
女の子と遊びに行くとき、クルマがないと困るでしょう。


なるほど、確かに困るかもしれない。田舎で恋愛するにはクルマが必要だと思う。
だが、私はそんな面倒くさいことをするぐらいなら、一人でいる方がいい。
助手席だったら乗ってやってもいいぜ、という傲慢な奴なのだ。


女が運転して男が隣に乗っているのは、はたして格好悪いのかどうか判断が分かれると思うが、
私は全然平気である。そのような“男らしさ”に関するプライドはない。
と、偉そうに言ったところで、私を助手席に乗せる女はひとりもいないから意味はないんだけど。


あまりにもクルマに乗れ乗れと言われたから、これはどうも言葉の裏に何かあるんじゃないかと、
さすがに空気の読めない私でもピンときた。
これは、異物を同化しようとする、田舎の人の同調圧力だ。
彼らは、自分たちと異質な人間がいると気持ちが悪いらしい。


たぶん、意識の上では親切心から言っているのだろう。
クルマの便利さ、快適さを知らないなんて、もったいないではないか、と。


いや、私もクルマのいいところを知らないわけではない。
若いときはドライブに連れて行ってもらって、とても楽しかった。自分で運転していないから、
なおさらそう思う。


でも、松山市に住んでいて、わざわざクルマで出かけなければならない場所って、いったいど
こにあるのだろう? 私は映画館や本屋があれば満足な人間なので、自転車で十分だ。
30分もこいだら、たいていの場所に行ける。運動にもなるし。


一瞬、クルマがあったら便利だろうな、と思ったのは、香川県にうどんを食いに行ったときだ
けだ。ふらっとうどんを食って帰ってくるのも悪くはないな、と思ったけど、それだけのため
にクルマを買うのもバカらしいではないか。


クルマは、本来は弱者のための乗り物である。
脚が悪い人や、子供連れの人が快適に移動するための道具だ。
あるいは、物流を担う道具でもある。
(私にとってクルマは、格好いいアイコンでも何でもない、ただの道具なのです)


それなのに、健康な人間が少しでも歩きたくないために、ギリギリのところまでクルマをねじ
込んでいるのを見ると腹が立つ。歩けよ。


もっとも、これは自転車にも言えることで、松山市の繁華街では路上に自転車が山ほど停めら
れているし、大都市では自転車の危険な運転が問題になっているという。
歩けよ、という言葉は、私にも返ってくるのだ。


大都市では、若者がクルマを買わなくなったらしいが、これは異常なことでも何でもなく、エ
コロジー教育の賜物ではないかと思う。
クルマに乗らないことがエコなんでしょ? と彼らは無言のうちに行動しているのだ。


当たり前だが、都会ではクルマがなくても恋愛している人は大勢いる。
さらに言えば、私が田舎でクルマに乗っていたとしても、誰も相手にはしてくれない。
問題はクルマの有無ではなく、私にあるからだ。


私は足腰が立たなくなるまで、ママチャリをこぎ続けるだろう。


本文と写真はまったく関係ありません

川*^∇^)||<ィヤッホゥー!