パクりという人々

よくネット上で、何とかは何とかのパクりだ、と騒ぎ立てる人がいますな。
あれは何のためにやっておるのか、ちょっと考えてみました。


ある創作物の許可を得ずそのまま使うことをパクりとしましょう。
この場合、作った人が訴えれば済むことで、第三者がとやかく言うことではありません。
では、そのままではなく、ちょっと真似る、あるいはアレンジして使った場合はどうなんでしょう。
これも、元のものを作った人と真似た人が話し合えば済むことで、こじれたら司法が判断すればいい
ことです。


問題は、元のものを作った人でもなく、真似た人でもない第三者が、本人には何の得もないのにパク
りだと喧伝することです。
著作権を持っている人がその第三者に対して、よく訴えてくれたね、ありがとう、という話を聞いた
ことがないのですが‥‥


私が思うに、パクりだパクりだと勝手に言う人は、単に真似た人に嫉妬しているだけではないでしょ
うか。
というのも、元ネタがあるにしろないにしろ、ある程度ヒットしなければ誰にも知られないわけです
し、全くヒットしなければ叩いてもしょうがないからです。


もうひとつは、自分はこんなに元ネタを知ってるんだぜ、という豆知識自慢でしょう。
パクっていると騒ぐことで、自分を褒めてほしいのです。思春期にありがちですね。


とはいえ、私は著作権をストレートに侵害することは許されないと考えております。
特許のある工業製品はもちろん、マンガやアニメなどでパクりが丸わかりなのがありますが、見てい
て腹が立ちます。
なぜかといえば、そこには元ネタへのリスペクトがないからです。金儲けさえできればいい、という
浅ましい心が透けて見えるからです。


一方で、芸として成立しているパクりもあると思います。
元ネタを作った人も思わず笑ってしまうようなものや、うまくアレンジして魅力的なものは、大目に
みてもいいのではないかと。


許されないパクりと、大目にみていいパクりの線引きはどこですればいいのでしょう。
ひとつは著作権者の判断です。
もうひとつは、大衆の判断ではないでしょうか。


すると最初に言ったことと矛盾しますね。
パクりだと騒ぐ人だって大衆に属してますからね。


ただ、私がここでいう大衆という言葉を、どのくらい売れたか、に変えてもよろしいかと思います。
この情報化社会で、丸パクリというのが全く知らされないまま大ヒットすることができるでしょうか? 
民度の低い国ならともかく、日本ではそういうことはなかろうと信じております。


それはつまり、洒落の分かる人がどれだけ多いか、ということになろうかと思うのですが、いかがで
しょうか。
惨めな自分のために他人を引きずり落とすのではなく、本当に面白いかつまらないかで判断できるよ
うな人が増えることが、成熟というものではなかろうかと。


本文と写真はまったく関係ありません

( ・e・)<あんまり昭和って言わないでほしいのだ