なぜ缶蹴りはオリンピック競技に選ばれないのか? 

私はスポーツが嫌いだ。
なぜ嫌いかというと、下手なので、勝ったときの爽快感を味わえないからである。


下手なら練習してうまくなればいいじゃないか、と思う人もいるだろう。
だが、動機がないのだ。負けず嫌いな性格ではないし、ちょっとうまくなって勝ったところで、
世界一になれるわけではない。


また、筋肉は遺伝によるものなので、生まれつき体格が悪いとどうしようもない。
劣等感をバネに鍛える人もいるだろうが、球技における肩の強さや、足の速さはいかんともし
がたいだろう。


そもそも、スポーツは富裕な人が暇つぶしに始めたものである。
その暇つぶしのゲームのいくつかが発展し、いつの間にか世界規模で行われ、大金が動くビジ
ネスになってしまった。


原理的には、スポーツを仕事にするということは、暇つぶしを仕事にしているという矛盾を抱
える話だ。それが何億円も稼ぐんだから、世の中わからない。
そりゃ、誰にもできないことができて、それをたくさんの人が見たがるから、という理屈は分
かるのだが、そこにスポーツの種類による差別があることも忘れてはならない。


野球やサッカーはメジャーなスポーツだから、世界レベルの選手になったら大金持ちになれる。
一方、ハンドボール競歩の世界レベルの選手は、名前さえ知らない。
では、野球やサッカーに比べて、ハンドボール競歩は劣ったスポーツなのだろうか? 
そうじゃなくて、人気があるかどうかの話でしょ。


また、スポーツをする人は健全だ、という説もどうかと思う。
爽やかに汗を流すナイスガイもいるだろうが、女子大生を輪姦するアメフト部員だっている。
特に日本の場合は、体育会系という言葉で象徴されているように、特殊なメンタリティを持っ
た集団をつくる傾向がある。


玉木正之の「NHK人間講座 日本人とスポーツ」によると

 スポーツとは、本来、誰もが自由に身体を使って楽しむ「遊びの文化」です。しかし、明治
時代の日本人が、欧米の文化を帝国大学を中心とする学校で受け入れた結果、日本のスポーツ
は、まず最初に「体育」として発展しました。


 体育は、青少年の健全な心身発育のために、欠くことのできない教育です。が、ともすれば、
強制的にスポーツをさせられることによって、スポーツ本来の楽しさが見失われるおそれがあ
ります。しかも、明治時代のスポーツは、武道と結びつき、心身鍛錬の道具と見なされるよう
になったのでした。

とある。


この歪みは、いまだに学校教育によって続いているのではないだろうか。
特に高校野球は、もはやスポーツとも武道ともいえない、奇妙な「仕事」になっているような
気がする。


この際、原点に立ち返って、遊びの楽しさを思い出してみたらどうだろう。


で、話は表題の「缶蹴りはなぜオリンピック競技に選ばれないのか?」になる。
なぜ缶蹴りかというと、私が子供のころにやって楽しかった遊びだからだ。


最も洗練させなければならないのは、隠れる場所の設定だ。
人工的に設定するのか、自然の中でやるのかで競技のスタイルは大きく違ってくるだろう。
また、途中で缶を蹴られると最初からやり直しになるが、弱いプレイヤーがオニになると、いつま
で経っても試合が終わらない可能性がある。
時間制限を設け、野球のイニングのように先攻後攻を繰り返して勝負するルールにしてもいい。


だが、缶蹴りには致命的な欠陥がある。
見ていても面白くないのだ。あれはプレイするもので、観戦するものではない。
仮に米軍の特殊部隊のような屈強な男たちがプレイしたとしても、一度捕まったらぼーっと待って
なければならないのは、スポーツとしてどうだろう。
人気のないスポーツは、競技人口も集まらないしスポンサーもできない。


缶蹴りはいくら洗練してもスポーツにはならないのかもしれないなぁ‥‥


本文と写真はまったく関係ありません

从*・ 。.・)<体育は大嫌いなの