犬夜叉

東浩紀の「ゲーム的リアリズムの誕生」をほぼ読み終えた。
私にはよく理解できない部分もあったが、自分なりにこういうことだろうな、と置きかえて
みたことを書いてみたい。
今回は高橋留美子の「犬夜叉」である。


私は、高橋留美子は女の嫉妬を描くマンガ家だと思っていた。
うる星やつら」や「めぞん一刻」は、まさにその嫉妬を描いた金字塔だと思う。
犬夜叉」も、そのような作品かと思っていたら、まったく違った。


一応、主人公をめぐる三角関係は軸としてあるのだが、ひたすら妖怪を倒していくだけで、
ブコメ的な展開はほぼ無い。
これって何が面白いんだろう、と疑問だった。


あるとき、これはRPGだな、と直感したとき、作品の構造が理解できた。
主人公がパーティを組んで、妖怪を退治していきながら旅を続ける。
そして、経験値が上がるごとに武器もレベルアップしていく。
四魂のかけらを集めてラスボスを倒したらエンディングを迎えるというわけだ。


なぜこういうマンガにしたのかは自明だろう。
子供がマンガを読まなくなり、ゲーム的な要素を取り入れる必要があったからだ。
小学館ポケモンを大ヒットさせたノウハウも持っていただろうし、「遊戯王」などのカー
ドゲームが子供たちを熱狂させていたことも織り込み済みだ。


それ以降、少年サンデーではゲーム的なマンガがどんどん誕生していくことになる。
「金色のガッシュ」や「妖逆門」などはその典型だろう。
いずれもテレビアニメ化され、カードが発売されている。


これらのマンガに共通することは、プレイヤーと戦う者の分離である。
従来の少年マンガであれば、主人公自身が戦い、読者は主人公に感情移入して楽しんでいた。
ところが、ゲーム的なマンガでは、主人公がプレイヤーになり、何かを使って戦いに挑む。
読者は戦う者ではなく、戦う者を操るプレイヤーに感情移入するのだ。


これは、自分が何かをするのではなく、ゲームのコントローラーを操作して遊ぶのと同じで
ある。
この構造がマンガに移植されたと考えていいだろう。


私のようなオッサンは、こういうマンガに対してすごく違和感を持つのだが、生まれたとき
からゲームで遊びなれている子供たちは、ごく自然にゲーム的マンガを楽しんでいる。
これからも、この流れがなくなることはないだろう。


そこで話は「犬夜叉」に戻る。
実は、「犬夜叉」ではプレイヤーと戦う者の分離はない。
つまり、RPG的ではあるが、カードゲーム的ではないということだ。
そのあたりに、高橋留美子の世代としての限界があるのかな、と推測する。


恐らく、主人公が自分を鍛えて強くなっていくマンガは「ドラゴンボール」でピークを迎え、
終了したのではないだろうか。
そして、子供たちも、そういう作品にリアリティを感じなくなったのだと思う。


このようなゲーム的な枠組みが、今後の少年マンガにどのような影響を及ぼすのだろうか。
私は、再びプレイヤーと戦う者が同一化する、従来の構造に戻るのではないかと思っている。
Wii のような体感ゲームのヒットがそれを裏付けているような気がするのだが、どうだろうか。


本文と写真はまったく関係ありません

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