下流志向

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

さくさく読めて面白いという、実にリーダーフレンドリーな本だった。
基本的には内田樹のブログに書いてあることを再録したような内容だったけれど、後半に聴衆との
質疑応答が収録されており(これは講演の書き起こしである)、そのやりとりもよかった。


この本では、教育や労働の異変の原因を、等価交換という言葉で説明している。
自分が支払う何かに対して、同等かそれ以上のものを得られなければ、取引そのものをやめる、と
いうことである。


つまり、学校だと教室に座って授業を受ける苦痛と「役に立つ」知識の交換が、職場だと不本意
労働と給料の交換が行われる、というわけである。
このような経済合理主義が子供にまで浸透してきたために、学校では教育が成り立たなくなった。


なぜ子供がそうなったかというと、ものごころつくころから消費主体になっているからである。
小学生でも大富豪でも、お金さえ出せば同じモノが提供される、というのが貨幣経済の基本だ。
本来はありえない敬意や、消費する快感を子供のころから享受していると、あらゆるものに対して
「買い手」としてふるまうことが得だということをおぼえてしまう。

 例えば、五十分間授業を聴くという不快の対価として、そこで差し出される教育サービスが質・量
ともに「見合わない」と判断すれば、「値切り」を行うことになります。仮に、その授業の価値が
「十分間の集中」と等価であると判断されると、五十分の授業のうち十分程度だけは教師に対して
視線を向け、授業内容をノートに書く。そして残りの四十分間分の「不快」はこの教育サービスに
対する対価としては「支払うべきではない」ものですから、その時間は、隣の席の生徒と私語をし
たり、ゲームで遊んだり(中略)、消費者である子どもにとって「不快でない」と見なされる行為
に充当される。

 これは紛れもなく取引なんです。だから、彼らが遅刻したり、サボったり、まことに怠惰な様子
を示しますけど、それは学校を辞めたいとか、授業には何の意味もないという判断を示しているわ
けではないんです。英語にも数学にも古文にも歴史にも、多少の実用的意味があることは生徒たち
にだってわかっている。彼らはただ「自分の不快に対して等価である教育サービス」だけを求めて
いるだけなんです。問題は等価交換が適正に行われることであって、彼らにとってはそれが何より
も重要なんです


しかし、等価交換は空間モデルであり、そこでは限りなく無時間であることが良いとされる。
それはビジネスではとても大事なことだけれども、教育においては間違っている。
学びは時間的な現象でしかありえない、というのが本書のキモであろう。
自らの変化と不可逆性を、内田は母語の習得というケースで分かりやすく説明している。
人間は母語を習得するとき「これは何の役に立つんですか」とは言わない(言えない)のである。
なるほど。


ニートについても、やはり同じように等価交換モデルで考えると、自分の労働と受け取る報酬の
アンバランスに対する異議申し立てだということが分かる。
損をすることが最初から分かっているのに、どうして働くことができようか、という判断は、経済
合理性からみて正しい。


だが、労働というものはそもそもそういうものであり、等価交換の前提が間違っている。
だから、もっと長い目で自分と周りの人とのつながりを見つめなさい、と内田は言う。
私もそうだと思うのだが、イマイチ歯切れが悪いように思う。


というのも、ここではワーキング・プアの問題が語られていないからだ。
もし、何の職業経験もないニートが働こうとしたら、確実にワーキング・プアになるだろう。
以前、内田はビジネス(仕事)とレイバー(労働)は違うもので、ビジネスだけが人間を質的に
成長させる、と書いていた。
しかるに、ビジネスをする人たちは雇用を切り捨て、レイバーをどんどん生み出しているような
気がする。


世の中には雪かき的な仕事もあれば、みんなが評価するような仕事もある。
それは人間の能力の違いだ、と言ってしまえばそれまでだけど、雪かき的な仕事をする人も
ベストを尽くせば幸せになれるのだろうか。
使い捨てられると思うんだけど。


本文と写真はまったく関係ありません

学びからの逃走