街場の教育論

街場の教育論

街場の教育論

私は小さな塾で中学生に英語を教えている。
塾の講師なんて、人生に失敗した人間がやることなので、教育がどうとか
偉そうなことは言えない。


それでも、ときどき生徒から、なんで勉強なんかしなくちゃならないの、
と問いかけられることがある。
そういう質問をする子は、決まって勉強ができない子で、勉強するのが面
倒くさいから言い訳を探しているだけである。


なんで勉強しなくちゃいけないかというと、そのような愚かな質問をしな
いようになるためだ、という話をしてムッとさせることもあるし、本当は
勉強というのは面白いからやるんだ、という話をすることもある。


まあ、塾の先生の言うことなので、子供たちもまともに受けとめはしない。
むしろこちらも気楽に喋ることができるというものだ。
学校の教師は責任があるから、なかなか思ったことを喋ることができない
だろう。その点は気の毒に思う。


この本では、教育とはどういうものかを、様々な角度から検証している。
ほとんど内田節というやつで、それが鼻につく人は読んでも面白くないだ
ろう。私は面白かったけど。


特に同意するのは、教育はビジネスではない、というところや、産業界か
らの要望に安易にこたえるべきではない、というあたりだ。
この本には書かれていないが、小学生に英語を教えるなんていうのは愚の
骨頂だろう。


教育とは直接関係ないのだが、人事の採用についての話が面白かったので
ここに引用しておく。

 以前にある大手出版社の編集者四人とご飯を食べているときに、ちょうど
就活シーズンでしたので、編集者たちに「みなさんはどういう基準で、面接
のときの合否を決めているのか」と訊いたことがあります。そういう人事に
かかわる重要情報を聴き出して、学生たちに教えてあげようと思ったのです。


 その編集者の方はどなたも、これまでに数百人の面接をしてきた経験者た
ちです。彼らが異口同音に言ったのは「会って五秒」で合格者は決まるとい
うことでした。


 受験者がドアを開けて入ってきて、椅子に座って、「こんにちは」と挨拶
をしたくらいのところで、もう○がつく人には○がついている。残り時間は
×をつける人に「どうやって気分良く退室していただくか」のサービス時間
なのだそうです。就職試験に落ちた人だって、その後ずっとその出版社の潜
在的な顧客なわけですから、「もう一生あの出版社の本は買わない」という
ような気分で去られては困る。だから、落とすことが決まっている人を相手
にしたときは、なんとか話題を盛り上げようとする。そして、にこやかな雰
囲気のうちにご退室願う。よく、面接の後で、「いやあ、すごく話が盛り上
がっちゃってさ」と満面喜悦の人に限って落ちているということがあるそう
ですが、舞台裏はそういうことなんです。


 逆に、もう○をつけちゃった人には「用がない」わけです。別にとくに話
すこともない。だから、面接官も気持ち「巻き」で面接をする。面接官がな
んだか早く終わらせようとしているので、ああ、もう落ちたと思っていたら、
なぜか通っていたんです‥‥という感想を聞くこと、これもよくあります。


 でも、「会って五秒」でどうして決められるんでしょう。そもそも、何を
見て決めているんでしょう。それが就活をしている学生たちには理解不能
んですね。


 でも、それはわかるんです。この人といっしょに仕事をしたときに、楽し
く仕事ができるかどうか、それを判定基準にしてるから。

 社会的活動というのは「協働」であって、「競争」ではありません。
 (中略)
 集団で作業し、それぞれがその専門的知識や技術を提供し合い、その協働
の成果はみんなで分かち合う。リスクも損害もみんなで分かち合う。それが
労働のシステムです。そういうシステムに適応できる人間を労働の場は選択
しようとしています。


 ですから、真にビジネスライクなビジネスマンは、「個人的能力はそれほ
ど高くないが、周りの人のパフォーマンスを上げることができる」タイプの
人を、個人的能力は高いが、協調性に欠けるタイプの人よりも優先的に採用
します。これは受験勉強ではありえないことですね。

 これで面接官が「五秒で決める」ことができる理由がおわかりになりまし
たか? 彼らはいま目の前に立っている受験者がそこにいるせいで、自分の
気分が「少しよくなった」のか「少し悪くなった」のかを吟味しているので
す。受験生をチェックしているのじゃなくて、自分の身体感覚をチェックし
ているのです。


 人がドアを開けて、椅子に座るまでの時間で、その人が周りの人の気分を
軽く、浮き立たせてくれる人か、周りにいる人を気鬱にさせるタイプの人か、
だいたい分かってしまうんです。ドアを開けてから、面接が始まるまでの、
いわば「その場に身体をなじませるまでの数秒間」だけでも、その人が同時
に入室する人の動線を塞ぐタイプの人間か、場の段取りが悪いと「舌打ち」
するような他責的なタイプの人間かはわかってしまいます。気の毒だけど、
「労働」の場とは言い換えると「協働」の場のことです。

 だから、就活の面接のコツは簡単と言えば簡単だよといつも学生には言っ
ています。「自分をよく見せよう」と思わないで、その場にいる人たちが
(いっしょに面接を受けている競争相手も含めて)気分がよくなるように
ふるまうことです。集団面接でディベートなんかやるときに、周りの人間
を黙らせて、ひとりで滔々と自説を述べるような人間はまともな組織は
「ノー・サンキュー」です(そんな学生を優先的に採るような企業はじき
につぶれますから、ご安心ください。そういう点では「マーケットは間違
えない」というのはほんとうです)。むしろ、みんなが気分よく話せるよ
うに「ファシリテイト」するタイプの人間が高く評価される(こういうと
すぐ間違える人がいますけれど、「ファシリテイト」するというのは「仕
切る」とは違いますよ。むしろ「受ける」です。誰も理解できないジョー
クにもにっこり笑ってあげるとか、そういうことです)。


長々と引用してしまったが、人を気分よくさせることができない私のような
人間が、面接でことごとく落とされてしまうのも当たり前なのだなぁ、と納
得した。


ちなみに私の同僚も、人の気分を悪くさせる天才である。
こういう人間ばかり採用している組織は、たしかにそのうちつぶれるだろう。


しかし考えてみれば、人を気分よくさせる人間がそんなに多いわけではある
まい。
ということは、ほとんどの人は人の気分を悪くさせる人で、そういう人ばか
りが集まる会社だって多いはずだし、逆に人の気分をよくさせる人しか採用
してないはずなのに、ギスギスした雰囲気の会社だってある。


結局、人事というのは万能ではないということか。
たぶん、選ぶほうでも採用基準がよく分からないので、珍妙な問題を作って
受験生を困らせているのだろう。迷惑な話である。