疲れすぎて眠れぬ夜のために

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

相変わらずのウチダ節であった。
これは初めて語り下ろしを原稿にしたものだそうだ。
そういえば大ベストセラーになった「バカの壁」も語り下ろしだったっけ。


ちょっと引っかかった部分は、69ページからの『ビジネスとレイバーの違い』という章だった。
ここでは、自らリスクを取り、その分だけ責任を持ち、決定権を広げるのがビジネスであり、
リスクを恐れ、責任を回避し、決定権が与えられないのがレイバーである、と定義づけられて
いる。


これは正しいと思うのだが、ここ最近急増している派遣労働者の場合は、自らリスクを取りに
行こうにも、最初からそういう権限が与えられていないのである。
とすると、レイバーしかできなくなるわけで、これは本人の能力の問題なのかどうか。
最初からそんな仕事に就かなければいい、と切り捨てるのは酷だと思う。


それから、190ページあたりからのキャラの話も、そう簡単に別キャラになれるもんなら苦労
はないよ、と思う。自分が簡単にできることが、他人にもできると思ってはいけない。
統合された私というのが幻想だとしても、別キャラばかりの自分というのも寂しいと思う。


あとは、ちょっと面白かった部分を抜粋してみる。

 英語に堪能になるというのは、要するに、英語のストックフレーズをたくさん覚え込んで、
英語圏の人たちが「言いそうなこと」を同じような口調で復唱することになってしまうので
す。


 以前サンフランシスコに行ったとき、帰りの空港のカウンターで、空港職員の態度が非常
に悪かったことがありました。長い間人を待たせておいて、だらだら仕事をしているし、割
り込む人がいても、それを咎めもしない。ぼくは20分くらい待たされた果てに、腹が立って
きて、ついカウンターをばんと叩いて、「ぼくは20分ここで待っているが、君はさらに何分
ぼくを待たせるのか」と怒鳴ったのです。


 この瞬間、ぼくは自分の英語があまりに滑らかだったのでびっくりしました。


 あ、そうか、英語というのは「私が正しい、君は間違っている、私には権利がある、君に
は義務がある」というようなことを言おうとすると、すごくスムーズに出ることばだ、とい
うことが腑に落ちました。


 「まず怒鳴る」と実にアメリカ的な語り口になるんです。「あ、すみません。勝手なお願
いですけど、聞いていただけます?‥‥‥‥」とか、「おっしゃることは確かによく分かる
んですけども、ちょっと微妙に違うんですよね‥‥‥‥」みたいなことを言おうとすると、
まるで英語にならない。


 英語で語るということは、英語話者たちの思考のマナーや生き方を承認し、それを受け容
れるということなのです。

フランス語だってヒンズー語だって、たぶん怒鳴る人は怒鳴るだろうし、丁寧な人は丁寧だ
と思うのだが、どうなんだろうか? 

 たとえば、竹内敏晴さんがひさしく批判なさっている、学校体育におけるいわゆる「三角
坐り」というものがあります。「体育館坐り」とか「運動会坐り」というふうに呼ぶ学校も
あるそうです。


 これは竹内さんの調べられたところでは、1958年に文部省の指導で導入され、しだいに全
国に広まったものだそうです。


 「三角坐り」というのは、腰を下ろして、両足を前に立てて、両手で膝を抱く、という坐
り方です。合気道の道場に来た学生に向かって、ぼくが説明のために「はい、坐って下さい」
というと、何人かがこの坐り方をします。みんなが正座している中で、一人二人が膝を抱え
て坐り込むと異様です。(中略)


 しかし、また何という坐り方でしょう。
 両手でしっかりと自分の体を抱きしめているわけですから、声も出せないし、手も足も動
かせません。胸を押しつぶしているから深い呼吸もできません。自分の身体そのものを監獄
にして、そこに自分を閉じ込めるような身体運用なのです。


 身動きならず、手も足も出ないような状態に子どもを置くというのは、いったいどういう
発想なのでしょうか。確かに、子どもを管理するためには便利な方法でしょう。私語も立ち
歩きも手遊びもできないし、そもそもろくに酸素も吸えないのですから。


 しかし、こんな姿勢が、人の話を聞くときの標準的な身体作法だと思っている子どもたち
を何十年にもわたって日本の学校は大量生産してきたのです。

自分もついつい三角坐りをしてしまう。確かに、息苦しい姿勢だ。
かといって、運動場のような砂のある場所で正座させるわけにもいかんのではないか、と。

 快感はある種の反復性のうちに存する。これを洞見と言わずして、何と言いましょう。
「同じものばかり求めるファンは怠慢だ」という人がいますけれど、それは筋違いですよ。
ファンほど快楽の追求に貪欲な存在はありませんから。それこそが「正しいファン」のあり
方なんです。


 ぼくがひそかに「心の師」と仰ぐ大瀧詠一さんが、山下達郎君に向かって、彼が比較的同
じタイプの楽曲を繰り返し製作するのを評して、「山下君は偉い! それはね、同じものを
求めてやまないファンに対する、君の大いなる愛情だよ」と何年か前の『新春放談』で言っ
てましたけれど、この批評は適切だと思いますね。


 桑田君とか山下君とかって、やっぱり愛情がある人なんですよね。ファンに迎合している
ということじゃなくて、愛情がある。だからこそ、彼らの音楽は20年にわたって支持されて
きたんだと思いますよ。

『新春放談』というのは、TOKYO-FM 系列でやっている山下達郎の“サンデーソングブック”と
いう番組で、毎年正月に大瀧詠一とやっている対談のタイトルです。
ファンは年に一度のこの対談を楽しみにしているのであります。


よし、今日は寝落ちしないで書けた!