ミソジニー再考

先日、ドラマ「電車男DX」に引っ掛けて、日本のミソジニー女性嫌悪)はどうなって
おるのだろうか、と書いた。
で、日本ではエロゲーに集約されてるんじゃないかなぁ、という話になったのだが、
もう少し考えてみることにした。


話を復習すると、米国では西部開拓時代に女性が極端に不足していたことから、男性は
少数の「選ばれるもの」と多くの「選ばれなかったもの」に分断された。
そして、「選ばれなかったもの」たちは、女なんかロクなものではない、という恨みを
つむいでおり、ハリウッド映画にはそうした女性嫌悪の映画が連綿としてある、という
ことだった。


で、日本だってモテ/非モテという差別があからさまになり、「選ばれなかったもの」
たちの恨みは深いだろうから、そういう怨念はどこかに集められているのではないか、
という仮説を立てたわけだ。


しかし、考えてみると(ハリウッド映画でもそうなのだが)、ラブストーリーというものは
「選ばれたもの」の視点で描かれており、見ている人は「選ばれたもの」に感情移入して
楽しむわけである。
これはギャルゲー・エロゲーでもそうなわけで、女性嫌悪ではない。


うーむ、何か女性が阻害された話ってなかったっけなぁ‥‥とスーパーに買い物に行き
ながら自転車に乗って考えていると、あったあったよ、「巨人の星」が。
そうか、日本のマンガ史には、梶原一騎がいたではないか。


いわゆる“スポ根もの”と呼ばれるジャンルでは、女性の介入はほとんどなく、ホモソー
シャルな世界が濃厚に描かれている。
やおいっつーのは、そこを楽しむわけだが、それはまた別の話)


ただし、米国のように女性嫌悪というわけではない。
「女なんてロクなもんじゃない」というメッセージは、「巨人の星」からも「あしたの
ジョー」からも受け取れない。
むしろ、女性排除ではないかと思われる。


というのも、星飛雄馬が恋した看護婦は病気で死に、その後は野球に人生を捧げてしまう。
星に惚れた京子という不良少女は、結局、左門豊作と結婚してしまうし。
矢吹ジョーは白木葉子との恋が実りかけるのだが、真っ白になって燃え尽きてしまう。
(スポ根マンガではないが、「愛と誠」でも、最後に太賀誠は死んでしまう)


つまり、梶原マンガでは、恋愛が成就すると一方が死ぬ、ということになる。
そういや、「愛と誠」で、早乙女愛に恋する岩清水は「僕は君のためなら死ねる」という
名台詞を残してたっけ‥‥。
梶原にとって、恋愛は命がけでなければならないのだろう。
80年代に入ると、そのような価値観はダサいものになっていく。


スポ根ものが衰退した後には、むしろ「選ばれ続けるもの」が主人公になるラブコメという
ジャンルが流行する。
そうすると、女に「選ばれなかったもの」たちの呪詛の声は、いったいどこに消えて
いるのだろう? 


米国のように「女なんかロクなものじゃない」という物語は、日本では受けないのかも
しれない。
むしろ、ラブコメを楽しんだり、萌えキャラに擬似恋愛することで解消されているのが
現実だろうか。


どうも私には、米国の女性嫌悪には母性の欠如というものがかかわっているような気が
してならないのだが、日本でもそのような傾向にあることから、やがて女性嫌悪の作品が
次々に作られていくのかもしれない。
母性なんてものは始めからないのだ、と言われれば、すいませんと頭を下げるしかない
んだけど。


本文と写真はまったく関係ありません

( ´ Д `)<勃てよ、キモヲタ!(←ギレンの野望?)