親知らず

学生のとき、親知らずを抜こうと思って西新宿にある大きな大学病院へ行った。
なぜその病院を選んだかは、よく憶えてないのだが、大きいところだと大丈夫だろう、
という根拠のない理由だったと思う。


レントゲンを撮って、翌週に手術することになった。
私は、ちょっと引き抜いて終わりだろう、と軽く考えていた。
歯医者をナメきっていたとしか言いようがない。


手術が始まった。
まず、やけに針が長く、途中でくの字の折れ曲がった注射器で歯茎に麻酔をする。
これが痛い。歯茎に薬液が、ぐむむっと入っていくのが分かるのだ。
麻酔の麻酔が欲しいところだ。


しばらくすると、左下の顎が痺れてきた(抜歯するのは、左下の親知らずである)。
口を開けて目を閉じると、後は恐ろしげな音しかしない。
私の親知らずは、歯茎からちょっとだけ見えていたものの、ほとんどが埋まっている
状態だった。だから、歯茎を大きく切開しなければならないのだろう。
そういう施術をしている音がした。


麻酔をしているので、口の端からヨダレと血の混じったものがダラダラと落ちる。
助手の人が吸引してくれるのだが、見当違いのところに吸引機の先を当てるので、
肉が引っ張られる。
何とかしてほしくて薄目を開けたが、どうも医者や助手には、そんな余裕はなさそう
である。
親知らずを抜くのって、こんなに時間がかかるもんだっけ? 


そのうち、私を担当していた若い歯科医がどこかへ行ってしまった。
私はバカみたいに口を開けて待っているだけである。もう、唾も出ない。
血が乾いてガビガビする。


すると、さきほどの若い歯科医が、年配の人と供に戻ってきた。どうやら教授らしい。
二人とも、私の口の中を見て、小声で何かひそひそと相談している。
トラブル? ねえ、トラブルなの? 


また、どこかへ行ったかと思うと、教授が私の前にぬっと現れた。
私の視界の端には、ノミと木槌が見える。
「はい、大きく口を開けて」
有無を言わせず(実際、言えなかったが)、奥にノミを突っ込んだかと思うと、
脳天まで痺れるほどの強さで、ガン! と木槌が打たれた。


まさか、大学病院でこんな原始的な器具を使うとは夢にも思っていなかった。
だって、ノミと木槌ですよ? 
20世紀末なのに。


あのですね、下顎の奥にノミを打ち付けられると、頭蓋骨がビリビリするんですよ。
もう麻酔とか関係なく、痛い。というか、熱い。
何回ぐらいノミが入ったろうか。
客観的には数分だったと思うけど、主観的には十数分に感じた。


後で聞いたところ、親知らずが横向きになっており、しかも下顎と癒着していたので、
砕いて摘出するほかなかったのだそうだ。
おい、それはレントゲンの段階で分からなかったのか? 
しかも、若手にやらせて、始末に終えなくなったら上の人を呼んでくるってのは、
どういうことだ? 


と、いまブログでは書けるのだが、気が弱いので、面と向かってそんなことは言えず、
倒れそうになりながら家に帰ったのだった。
その晩、熱が出た。


次の週に抜糸をして、いちおう治療は終わったのだが、その後5年ぐらいは、親知らずが
あった場所の肉が復元せず、ずっと大きい穴が開いている状態が続いた。
食べ物がつまってしょうがなかった。


最初は、左が終わったら右も抜こう、と思っていたのだが、一度で懲りた。
抜いてない方の親知らずは、別に悪さをすることなく、いまもある。
無理に抜いたりしない方がいいのではないかと思うのだが、どうなのだろうか? 


本文と写真はまったく関係ありません

(こんぐらい痛かった)