ためらいの倫理学

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

内田樹のブログで、ちょっとした話題になった話があった。
5月20日付けの「エビちゃん的クライシス」という記事だ。(参照


内田先生が授業をしていて、モデルのエビちゃんを無批判にロールモデル
するのは、フェミニズム的にいかがなものか、ということを言ったとき、
ゼミ生がきょとんとした。
「あの‥‥『フェミニズム』って何ですか?」
なんと、13人中8人が、フェミニズムという言葉を聞いたことがなかったのだ
そうだ。2人は、聞いたことはあるが意味は知らなかったとのこと。
これには驚いた、という内容だ。


この記事に呼応して、「[間歇日記]世界Aの始末書」というブログを書いている
冬樹蛉さんが、大学生の知識の低下は今に始まったことではないですよ、という
話を載せている。(参照


その中で、私が笑ったのは「月をなめるな」という話だった。
面白かったので、ぜひ読んでみてほしい。(参照


月には水も空気もない、とか重力が八分の一だとかいう話は、学研の「宇宙のひみつ」
を読んだら得られる知識だと思うのだが、最近の子は「ひみつシリーズ」を読んで
ないのだろうか? 


同じような話が「ためらいの倫理学」にも書かれている。
“「矛盾」と書けない大学生”というタイトルのエッセー(?)だ。

三年ほど前、学生のレポートに「精心」という字を見出したときには強い衝撃を受けた。
だが、この文字はまだ「精神」という語の「誤字」であるということがただちに分かる
程度の誤記だった。
去年、学生のレポートに「無純」の文字を見出したときは、さすがに、しばらく動悸が
鎮まらなかった。それが「精心」とは違う意味での、知的な「地殻変動」の兆候のように
思えたからである。

文脈をたどる限り、「無純」と書いた学生はただしく「矛盾」の意味で用いていたらしい。
問題は、語義を理解し造語する能力のある学生が、なお「矛盾」という文字を知らなかった、
という点にある、と続く。

なぜ、「矛盾」が書けないのか? 
「本や新聞を読まないからだよ」と言って済ませる人がいる。
だが、そうだろうか。実際には、彼らはけっこう文字を読んでいる。
彼らが愛読する「マンガ」というのは絵と文字のハイブリッド・メディアであり、膨大な
量の文字情報をも同時に発信している(中略)。それに、彼らが日頃耽読している情報誌や
ファッション誌もまた少なからぬ文字情報を含んでいる。


なぜ、これだけ文字に浸かっていながら、「文字が読めない」ということが起こるのか。
私の仮説は次のようなものである。
それは彼らが「飛ばし読み」という習慣を過剰に骨肉化させたためである。
私たち人間の知性にはもともと「意味のないノイズ」を無視して、自分にとって意味のある
ものだけを選択的に拾ってゆくという「飛ばし読み機能」が備わっている。機械にはこんな
芸当はできない。

どうして、そういうことになってしまったのか。いささか思弁を弄したいと思う。
通常、私たちは「自分程度の知的水準の読者を対象としている」と想定されているメディアで、
自分の「読めない文字」や「意味の分からない単語」に出会った場合、「ぎくり」とする。
文脈から推察できない場合は、人に聞いたり、(あとでこっそり)辞書を引いたりして、
語義を確定しようとする。そのような「意味の欠如」に反応する不快や欠落感に担保されて
私たちの語彙は拡大するのである。


ここまではよろしいな。


ところが、当今の若者たちの場合は「自分たちの知的水準に合った」メディアに日常的に
触れながら、「意味の欠如」を埋めようとする意欲がほとんど発生しない。読めない文字が
あっても気にならないのである。
どうして、そんなことが起こるのか?


ここで、内田樹は、ある音楽情報コラムを引用し、ほとんど理解ができない、と告白する。

この文章が読者に求めているのは、ちょうど英語のヒットソングを(歌詞の意味が分から
なくても)愉しむのと同じように、「ノリのよい文章を読んで、気分がよくなること」
である。(中略)
書く側読む側に共有されているこのような「テクスト=音楽」的な受容態度が、「今どき
の若者のリテラシーに初期設定としてビルトインされている『飛ばし読み』機能」を形成
する心理的土壌をなしていると私は考えている。


同じことは英語まじりのDJ番組や、スタッフのあいだでしか通じない意味不明の「内輪
ギャグ」を平然と放送するヴァラエティ番組についても言えるだろう。いわば、メディアは
ほとんど意図的に「虫食い算」のようなかたちで情報を供与しているのである。そして、
メッセージの受け手がその「意味の虫食い部分」について、「え、いま何て言ったの?」
「え、それ何? 何のこと?」というふうに逐語的に反応するのは「みっともないこと」
だとされているのである。


いまの若い人たちが目にし、耳にする日本語の文章は、あまりに多くの「意味不明なことば」
を含んでいる。そして、読者視聴者に期待されているのは、その逐語的理解ではなく、文章の
持つグルーヴ感やテンションに同調して「乗る」ことなのである。
おそらくそのようにして「無純」と書く大学生は誕生したのであると私は思う。


‥‥引用が長すぎたな。すいません。


私も、特にネット上の文章を読む場合は、読み取りのモードをゆるくして、高速化している
ことが多い。
何かを精読するということは、ほとんどやってないのではないかと思う。


あと、内田樹の言う理由に加え、親がバカになった、というミもフタもない事実もあるだろう。
「知らないことは、恥ずかしいことだぞ」と思わなくなったからかもしれぬ。
トリヴィアルなことを知識だと誤解している人がマジョリティになったということも
言えるな。


それにしても、毎日まいにち膨大な量のメールをやりとりしているのに、「むじゅん」を
変換することはなかったのだろうか? それが、いちばん不思議だ。
まあ、メールの内容は確かに100%ノリで理解するものだろうけど。


実は「ためらいの倫理学」には、戦争・性・物語というサブタイトルがついているように、
もっと難しいことが書いてあるのだが、上記のエッセーがタイムリーだったので紹介して
みました。
おしまい。