Boaz2011-12-30

今日の内田樹のブログを読んで、前からモヤモヤしていたことが
すっきりした。
ちょっと引用する。

かつて国際政治の立役者たちは「父」たちであった。
ヤルタ会談に集ったルーズベルトチャーチルスターリンの三人が図像的に表象していたのは「あらゆることを知っており、水面下でタフな交渉をし、合意形成に至れば笑顔を見せるのだが、そこに至る過程での熾烈な戦いと、そこで飛び交った『カード』についてはついに何も語らない父たち」である。
「父」たちの特徴は「抑制」と「寡黙」である。
彼らは何を考えているのか、よくわからない。
ただ「いいから、私に任せておきなさい」というだけである。
なぜ彼らに任せておけばよろしいのか、その理由については特にご説明があるわけではない。
「いいから、任せておきなさい。悪いようにはしないから」と言うだけである(それを言いさえしない場合もある)。
彼らに任せたせいで、どんな「いいこと」があるのか、その予測も語らない。
ただ、思慮深そうなたたずまいと、低い声と、抑制的な感情表現を示すだけである。
そういう場合、私たちはなんとなく「じゃあ、この人のいうことに従おうか」という気になる。
政治というのは「そういう人たち」がやるものだと私たちは久しく思っていた。


私はわりと前から、読売新聞の物言いが気に食わず、その理由を
ぼんやり考えていたのだが、なるほど、この「全部わしに任せて
おけばいいから」というオヤジであったか。


おそらく、経団連のエライ人たちのマインドも、ほぼ同じなのでは
なかろうか。
彼らの「どうせお前らに説明しても理解できんだろう」という固い
意思は、ある意味、尊敬さえおぼえる。


内田樹の話は、このあとアイゼンハワー大統領からケネディ大統領
の話になり、期待されるリーダー像が大きく変化したことを述べる。


結論として、分かりやすく威勢のいいリーダーを選ぶのもけっこう
だが、思慮深い寡黙なリーダーもいいのではないか、と言っている。


私は読売新聞的な人が大嫌いだけれど、政治的なリーダーシップを
とるには、そういう能力が必要だということか。
ただ、選択肢はもっと多くてもいいのではないか。


海千山千のオッサン型でもなく、ちゃぶ台返しの兄ちゃん型でもな
いリーダー像というものができたらいいのではないかなぁ、と。


それはどういうものかと問われても、私には何も浮かばないのだが。