ある人がかりんとうの絵を描いたとしよう。

それを見た人が犬のうんこだと思ったとしたら、その人の

解釈が間違っていることになるのだろうか? 

 

描いた人が、これはかりんとうです、と説明したら、それ

以外のものだと思ってはいけないのかどうか。

抽象的に言うなら、表現されたものの解釈は、どのくらい

自由度があるのか、ということなのだが。

 

もし描いた人だけがかりんとうだと主張して、見た人が

みんな犬のうんこだと思ったとしたら、それはもはや犬の

うんこの絵になるのではなかろうか。極端な話だが。

 

それとも、作者の意思が尊重されて、かりんとう以外の

解釈は許されなくなるのか。絵のタイトルに「かりんとう」と

つけておけば、そういう間違いもなくなるかもしれないが、

もっと別な表現にすべきなのかも。

 

 

なぜこんなことを書いたかというと「けものフレンズ2」には

悪意があったかどうか、という話を読んだからだ。

 

悪意があったかのように見えるのは、見る側に最初から偏見が

あるからだ、という人もいる。そうかもしれない。

 

しかし「2」というタイトルがある以上、続編であることは

明らかなわけで、まっさらな目で「2」を見る前提は間違って

ないか、ということも言える。

 

 

私は、「2」の制作陣が前作のリスペクトを持っていたとすれば、

想像を絶するほど無能だったとしか思えない。

その無能さが悪意にとらえられたとしても、視聴者が責を負うべき

ではないと判断する。

*[本]平成の終焉

平成における象徴天皇制とはどういうものだったのか、データに基づいて
論じていて勉強になった。


いまの天皇皇后は即位する前の皇太子皇太子妃時代から、全国をくまなく
まわっていて、そのときの人々との接し方に彼らの意思があったのだ、と
いう論考だったように思う。



私が勝手に思うことは、現在の天皇自民党政権に違和感をおぼえている
のではないか、ということだ。もっと率直に言えば苛立っているのかも
しれない。


ただ、政治に干渉できない立場なので、なかなかそれを国民に伝えられず、
とうとう「おことば」というかたちで表明したのではないか、と。


それが実際には政治に影響を与えてしまうことも計算に入れているはずで、
その意図は憲法から逸脱しているのでは、という指摘は当然だろう。


それでも天皇に勝算をいだかせた根拠は、皇太子時代から60年にわたって
全国を行幸啓して達成した、著者の言葉を使うなら「国体のミクロ化」だと
思う。


実際、ほとんどの日本人はいまの天皇に素朴な崇敬の念を抱いており、
ちょっとやそっとのことでは揺らがないだろう。
それを利用したい人々を警戒しなければならない。



あとがきで、著者が毎日新聞で対談した記事について、宮内庁が名指しで
反論したことが書かれている。それについて

 ある事情通から聞いた話ですが、特定の人名に言及して宮内庁がここまで
反論するのは、きわめて珍しいそうです。こんなことは、宮内庁単独の判断
ではできない。その背後にはどうやら、皇室関係のすべての記事を日々チェック
し、目を光らせている「ある人物」の存在が見え隠れしているようです。
具体的な名前は控えますが、その名前を聞いたとき、なるほどと思ったことも
また確かでした。
(p221-222)

とあって、「ある人物」って誰なんだ、と気になってしまった。
その筋の人ならすぐに分かるのだろうけど。



日本会議周辺の人たちが、なぜ明治時代から昭和初期の制度を称揚し、
戦後を全否定しているのか、よく分からなかった。
保守というなら、明治時代以前の歴史についても伝統を重んじるべき
だと思うのだが、どうもそうではなさそうだ。


ふと、彼らが大好きな時期は、日本が対外戦争で勝っていた時代だ、
ということに気がついた。


つまり、伝統とかそういうことではなく、外国に戦争で勝っている
日本が大好きで、またそういう国にしたい、というだけの話だった
のだ。


それは保守というよりは中二病というか未熟な人の考えでは
なかろうか。
「ぼくのかんがえたさいきょうのにっぽん」を実現するためには、
皇室を表に立たせて反対する奴を黙らせよう、というのが本音だろう。


だから、靖国神社に参拝しなかったいまの天皇が気に入らなかった。
もっと自分たちの駒になるような天皇が望ましいのだろう。



退位して、次の天皇になる浩宮徳仁がどういう象徴天皇像を描くかは
まだ未知数で、さらに秋篠宮文仁の代になったとしたら、どうなるかは
ますます分からない。


共和制にすべきというラディカルな人もいるけれど、おそらくそれは
あと100年ぐらいは無理だろう。
秋篠宮悠仁の子供が男の子でなければどうなるのか、見届けられない
のが残念だ。

幾原監督の「さらざんまい」第一話を見た。

クマの次はカッパなのですね。

なんじゃこりゃ、という話でしたが、相変わらず映像が不思議&美麗

なので毎週楽しみになります。

一週間ぐらい前だったか、田舎者と貧乏人を初めて見た話、というのが

匿名ブログに上がっていて話題になっていた。

anond.hatelabo.jpこれを書いた人が社会に揉まれて心を入れ替えるか、死ぬまでそのまま

なのかは分からないが、あなたが食べたり着たりしているものは、

あなたがバカにしている田舎者と貧乏人が作っているのですよ、と

言っておきたい。

 

 

これを読んで前から気になっていることが補強できた。

それは、官僚にはこういう首都圏の中高一貫校出身の人がほとんどなの

ではないか、ということだ。

 

個人的な仕事ならともかく、国全体に影響がある仕事なのに、首都圏の

ことしか知らない人ばかりではまずいのではないか。

が、ここ20年ぐらいの政策を見ていると、東京のことしか考えてないね、

というのが多くなっている気がする。プレミアムフライデーとか。

 

もちろん、高級官僚が地方に行ってから戻ってくることは知っている。

が、それはお客様扱いであって、田舎者や貧乏人を見下す考えが変化

するとは思えない。むしろ匿名ブログの人のように強化されるだろう。

 

 

時代は遡るが、田中角栄という政治家は、そういう考えの官僚を

叩き直した人だったのだな、と思った。

自民党の政治家には、そういう人が多かったけれども、最近は

あまりいなくなったのではないか。

選挙区は地方でも学校は首都圏、という二世・三世の政治家が

半分ぐらい占めるようになったと思う。

 

 

効率だけを追えば、首都圏がシンガポールのように独立して、

他の田舎は滅びたらいい、と考える人が増えるだろう。

 

国民国家を束ねる何かが失われていくのは、ブログを書いたような

視野狭窄の人が多くなったからかもしれない。

その一方で、極右的なものにシンパシーを感じる人も可視化されて

きている。

 

これからは、文化資本を持つものと持たないものに階層が分かれて

いくのだろうか。

レヴィ=ストロースの「野生の思考」を読んで考えよう。

 

グローバル企業のトップの報酬が何十億円もするのはどういう

根拠があるのだろう? 

自分の報酬を自分で決められるのなら、いくらでも上げられる

と思うのだが、資本主義というのはそういうものなのか。

 

欧米の企業のトップに強欲な人が多いのも気になる。

日本も戦前ぐらいまでは同じぐらい給与の格差があったそうだが、

戦後から平成にかけては抑えられていたはずだ。

 

南米や東南アジアも格差が激しいと思うが、先進国になれないのは

そのせいではないか。中産階級を作らなければ社会全体が豊かに

なれないはずだが、グローバル企業はその逆のことをしている。

自分で自分の市場を狭めているのが分からないのだろうか。

 

格差が大きい国ほど累進課税を強めるべきだが、強欲がそれを

許さないのでしょうな。

*[本]バベル九朔(文庫版)

バベル九朔 (角川文庫)

バベル九朔 (角川文庫)

本作は文庫化するときに大幅に書き直している。
単行本が未熟な果実だとすれば、文庫本は水分を抜いたドライフルーツと
いうところだろうか。旨味は凝縮されているが、私は単行本の方が好みだ。


いちおう単行本と文庫本を読み直して見ると、作家がどのような推敲を
しているかが分かって面白い。
なぜ文庫本で書き直そうと思ったかは本人に訊いてみないと分からないが、
舞台をひとつに絞った方がいいと判断したからではなかろうか。


単行本では、主人公は絵の中の世界に吸い込まれ、そこからビルに登って
いくが、文庫本では絵の中の世界はすべてカットされている。


作者の目論見としては「偉大なるしゅららぼん」の世界とリンクさせようと
したのではないかと思われる。
すなわち、湖の力を利用する人々の話で、名前にはさんずいがついている、
という設定があるが、単行本ではそれにしたがって大九朔のフルネームは
九朔満男、主人公のフルネームは九朔満大になっている。


しかし文庫本では彼らのフルネームは明かされない。
湖の民との関係も語られてはいないが、蜜村さんの故郷がどこか言うあたりに
うっすらと匂わせている。



文庫本では舞台をビルに限定したので、登場するテナントの数が倍増
している。それぞれの名前が何かのパロディかもしれないが、私は
それが分からなかった。


万城目学週刊文春で、自分が大学生から作家になるまでのことを
エッセイにしている。
ビルの管理人になっているところを読むと、この作品に書いてあることの
元ネタが分かる。ネズミの死骸や吐瀉物や便を処理したエピソードもあって
生々しい。



文庫本で大幅に書き直してすごく面白くなったかというと、そうでもない
気がした。構成はすっきりしたけれど、相変わらず変な読後感があって、
もやもやしている。


ちなみに実写化するなら、主人公は生田斗真、大九朔は山崎努、初恵おばさん
夏木マリといったところか。鉤鼻でなければならないのが難しい。

大阪の知事選挙と市長選挙で、ともに大阪維新の候補が当選した。

どうした、大阪? 

これから酷い目に遭うというのに、なぜ大阪維新に入れたのだ。

と、外野が言うたびに意固地になったのだろうか。

まあ、自民党が推薦する候補者もどうかとは思うのだが、既得権は

大阪維新がおいしくいただくだけなのだがなぁ。

せめてもの希望は、大阪市議会で維新が過半数をとれなかったと

いうことだろう。