ドラゴンボールを読んで、どこが面白くなかったか、という話を書いた若者が話題になっていたので見に行った。
「ああ、君は先輩にムカついたんだね」という感想しかなかった。
たぶん来月にはそんな人がいたことも忘れられているだろう。
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ただ、自分が気に入らない人やものごとを、ストレートに「嫌いだ」と書かずに、
正しいかどうかにすり替えている人が多くなっているのでは、とは思った。
ドラゴンボールに文句をつけた人も、先輩に読んでいないことを指摘されたのが
腹がたったのに、それを作品にケチをつけることで隠蔽しているのが丸わかり
だったのが痛々しい。
「新潮45」で騒ぎになった杉田水脈とか小川榮太郎なんかも、ホモやオカマが
気持ち悪い、と考えているただの差別主義者なのに、生産性だの痴漢の人権だのに
すり替えて話をしているから卑怯なのだ。
これはネトウヨに限ったことではなく、安倍首相が嫌いなのを別のことにすり
替えるサヨクにも、萌え絵が嫌いなフェミニストにもよく見られる話である。
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たぶん、こういう書き方は最近のものではなく、大昔からあったのだろう。
しかし、あまりに酷いものはメディアが弾いていたので人目に触れなかった
だけで、いまは何の制限もなく世の中に溢れている。
どうせなら格好つけずに、嫌いなものはただ嫌いなのだ、と書いた方が
いいのではないだろうか。
「私が嫌いなものを世の中からなくしたい」教というのを立ち上げて
信者を募ったらよろしいと思う。
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私が嫌いなものは戦争や貧困です、と言うのは、21世紀にはサヨク
扱いされてしまうのでしょうかね。