「坂の上の雲」と日本人

「坂の上の雲」と日本人 (文春文庫)

「坂の上の雲」と日本人 (文春文庫)

小説「坂の上の雲」の解題として、読みやすく面白かった。


もともとは文芸春秋社の若手編集者向けのレクチャーだったらしいが、
全面的に書き換えたそうだ。


司馬遼太郎が執筆中には発見されていなかった資料なども加え、「坂の
上の雲」がどういう意図で作られていったか、非常に細かくフォローし
ている。
坂の上の雲」ファンなら、ぜひ一読をお勧めする。


                 *


ちょうど1999年前後に、突如として「坂の上の雲」の第二のブームが起
こった。


産経新聞は、「坂の上の雲」を再掲載し始めた。
週に一度、10回分ぐらいをまとめていたと思う。


どういう理由かは分からない。
金融危機で、日本のシステムが大きく変わり始めた時期だったから、社
会が何かのよりどころを求めていたのかもしれない。


今年スタートしたドラマ化は、作者が亡くなったこともあったが、この
ときのブームもきっかけになっていると思う。


私は松山に生まれたが、恥ずかしながら秋山兄弟のことは東京で暮らす
ようになってから知った。


坂の上の雲」を読んだのは30歳をすぎたころで、三鷹の古本屋で全巻
セットを1700円ぐらいで購入したのを憶えている。
ブームの1年ほど前だった。


なぜ松山に生まれ育った人間が、秋山兄弟を知らなかったのか。
それは教育のせいである。
(私の両親が読書階級でなかったからでもあるが)


松山といえば夏目漱石の「坊っちゃん」であり、正岡子規であった。
小学生はみんな夏休みの宿題に俳句を作らされたものだ。


日露戦争を描いた「坂の上の雲」は、当時の松山の教育委員会にとって
困った作品だったのだろう。
今も公立の学校ではほとんど触れられていないはずだ。


昔は道後温泉の近くの公園にあった秋山兄弟の銅像も、軍人はいかん、
という理由で梅津寺という郊外地域に移されてしまった。
私は、あんなアクセスしにくい所にある銅像を、街の中心部にある生家
跡地に移転すべきだと思う。


この文庫本の解説で内田樹
「どんな主義にしろイナカほど繁殖しやすい」
という関川夏央の言葉を拾っている。


この場合のイナカとは、地理的・経済的条件によるものではなく、「生活
に内面化してしまったイデオロギー」だそうだ。
要するに、よそ者の話を頭から聴かない、ということだろうか。


能力のある若者は、こういう場所が息苦しくなり、イナカを出て二度と戻
ってこなくなる。
人材は流出するのみである。
イナカの人間はそのことが実はよく分かっていない。


晩年に松山に戻り、北予中学(いまの県立松山北高等学校)の校長を務めた
秋山好古は、そういうことが分かっていたのかもしれない。