空き缶

こないだ金物・ガラスの日だったのでゴミを捨てに行った。
ゴミ捨て場には他の人が出したゴミも出ており、透明な袋だったので中身が見
えた。


その中のひとつに、缶チューハイの氷結の空き缶がポリ袋いっぱいに入れてあ
るものがあった。すべて同じフレーバーのものだった。


おそらく、このゴミを捨てた人は同じ味のものを毎日毎日飲んでいたのだろう。
人のゴミを見てあれこれ言うのはまことに下品なことなのだが、たまには別の
味のチューハイを飲みたいとは思わなかったのだろうか? 


同じものをしばらく飲み続けてしまうことはよくある。
自分のことを省みると、紅茶がそうだ。もう10年以上ほとんど同じ銘柄のもの
を飲んでいる。
こうなると習慣というか、ひとつの型になっていると思う。


食べ物ではどうだろうか。
毎朝、納豆を欠かさない人は大勢いるだろうし、もしかしたら誰でも決まった
嗜好をを持っているのかもしれない。


日本人は毎日、米の飯をひたすら食べているけれど、これも飽きるということ
がないのが不思議だ。外国で一週間ぐらい米の飯を食べなくても平気なのだが、
たぶん半年ぐらいすると猛烈に恋しくなるだろう。


本来、ヒトは手にはいるもので食事をすませており、好き嫌いなどは言ってら
れなかっただろう。食料が豊富に手に入るようになったのは、人類史上ごく最
近のことだと思う。


昆虫やある種の動物には、決まったものしか食べられないものがいる。
パンダは笹がないと生きていけないし、コアラもユーカリの葉っぱがないと死
ぬ。


これらは好みというよりも、そうせざるを得ないように進化したのだろう。
それが生存戦略上有利だったのは、ほかの動物がそれを食べなかったからではな
かろうか。


かなり危険な賭けだと思うが、農業をしない以上は周りの生態系に依存しなく
てはならないのだから、当然といえば当然かもしれない。


そのような固有のものしか食べられない生物と、雑食性の生物はどのくらいの
割合なのだろうか。固有のものしか食べられない方が多いような気がする。
何の根拠もないけれど。


食べ物の好みは保守的だから、よほどのことがない限り、長年慣れ親しんだも
のを手放すはずがない。
けれども、人間は新製品が出ると買ってみたくなる生き物でもある。


新製品といっても、企業が想定した好みの範囲内なわけで、ある日いきなりイ
モ虫やセミをバリバリ食べることにはなるまい。
(沖縄の人はセミを当たり前のように食べるそうだが)


話がとっ散らかってきたのでもうやめるが、ゴミ捨て場で見た缶チューハイ
人も、毎日ずっと同じものを飲んできたということは、生活がほとんど変わっ
ていないということを意味するのだろう。


同じものをひたすら食べたり飲んだりできるということは、いかにその生活が
安定しているかを示すものだ。
きっと缶チューハイの人は孤独だったかもしれないが、安定した暮らしを送っ
ているに違いない。