空き缶

塀の上とか自転車のカゴに空き缶を捨てているのをよく見る。
どのくらい前から、ああいう捨て方になったのか分からないけど、私はあるいみ戦後を象徴する
ものだと思う。


もし、明確に空き缶を捨てるという意思があるならば、塀の上や自転車のカゴなんかに捨てずに
道端にポーンと投げ捨てた方が気持ちいいだろう。
現に、山道なんかではそうやってポイ捨てされているゴミがたくさんある。


では、どういう心理で塀の上に捨てていくかというと、言い訳するためである。
ゴミを捨てることは悪いことだと分かっているが、ゴミ箱をさがすのは面倒くさい。
だから、これは捨ててるんじゃなくて置いているんだ、とやましさを少しでも紛らわせようとして
いるのだ。


自転車のカゴにも、誰かがゴミを入れると次々に別のゴミが入る。
最初に入れたのは自分ではない、という言い訳があるから、明らかに悪いことだと分かっていても
やってしまうのだろう。
(最初にゴミを入れた人は、カゴがゴミ箱みたいだったから、と言い訳するはず)


つまり、自分の悪を自分で引き受ける度量を失い、言い訳だけは用意しておく人間が増えたという
ことだ。


たぶん、戦前だってタバコのポイ捨てはあったと思うし、自動販売機が普及してからゴミがどんどん
増えていったはずだけど、心のやましさは自分で処理していたと思う。
そのやましさを棚上げする心理は、正義がぼんやりと形を失っていったのと同じころに生まれたので
はないか、と推理する。


ここでいう正義は、人々が信じられる虚構といってもいいんだけど、例えば戦時中はでっかい正義が
まかり通っており、それに背くことは非国民とされた。
戦後は各種のイデオロギーが正義を代弁し、そういうのはもう嫌だと思った人々は高度成長に逃げた。
(このあたりで正義はおぼろげになっていったと思う)
高度成長が終わって豊かになると、宗教が正義を語るようになり、オウム事件が起こった。
いま正義を標榜しているのは、米国経済か。


なんかもう正義とかいいや、と思うと、人は悪を悪として意識しなくなるんじゃないかな、と思う。
人間が生きている限り悪はなくならないけど、正義も悪も相対的になってしまうと、いいじゃん、こ
のくらい、というグレーゾーンが広がってしまい、結果的に悪がはびこることになるんじゃないかな、
と心配するのだが、考えすぎだろうか? 


なんかうまくまとまらないけど、どうで空き缶を捨てるんなら、思いっきり放り投げて捨てればいい
し、それをやる度胸がないなら、きちんとゴミ箱に捨てようぜ、という話でした。
自分でも何が言いたいか分からなかった‥‥(^^;


本文と写真はまったく関係ありません

从*` ロ´)<ポイ捨てはダメーっ!