いじめの構造

いじめの構造 (新潮新書)

いじめの構造 (新潮新書)

これまでのいじめ議論を訂正し、実効力のある対処法を示した内容だと思う。
スクールカーストという言葉を導入し、いじめの実態をきれいに説明するところが最大のポイン
トだろう。


スクールカーストとは、本来のカーストの意味とは違い、学校内の人気ランキングのようなもの
である。ただし、学力や運動能力はそれほど重要ではない。
それはコミュニケーション能力の有無によって決まり、スクールカーストが下位の者は、よりい
じめに遭うリスクが高まる。


コミュニケーション能力は、自己主張力・共感力・同調力の三つの関数である。
目立つことが好きで、相手の気持ちが分かり、周りの空気を読むことができる人間が、最もコミュ
ニケーション能力が高く、その反対が最も低いということになる。


この本の42ページにある「修正藤田理論」の図を見ると、いじめは四種類に分類できる。
そして、スクールカーストの上昇・下降に敏感な生徒たちの心理を織り込まないと、現在のいじ
めには対処できない、としている。


また著者は、学校内のいじめと犯罪をきちんと分けて考えなければならない、と言っている。
これは私もそのとおりだと思う。
暴行や恐喝は犯罪であり、被害者が証拠を出すことができれば、加害者は司法で裁かれるのが
当たり前だ。たとえそれが学校内で起こったとしてもである。


学校を含めた行政は、こういうことをしたら、こういう罪になって、こういう罰を受けますよ、
というメニューを決めて、それに従って犯罪の加害者を処分しなければならない。
そうすることが、いじめの抑止力になるのだ、という。
ちょっと厳しすぎる気もするが、学校内でのいじめは、ここまでエスカレートしているのか、と
恐ろしくなる。


ところで私は、スクールカーストについて、コミュニケーション能力が大事なのは分かったが、
なぜコミュニケーション能力が高いのが良いこととされているのか、次元をひとつ繰り上げて
考えてみた。


というのも、コミュニケーション能力が少ない人でも、優れた人はいるだろうと思うからだ。
つまり、集団の中で言葉による意思疎通が重視されているが、それ以外のもの、たとえば絵や
音楽や文章で表現することに優れた人だっているんじゃないの、と。


いま、スクールカーストで上位に位置づけされるのは、芸人のような人を笑わせることのでき
る能力を持っている生徒だろうか。
しかし、みんなが芸人になれるわけでもないし、本物の芸人だって全員がコミュニケーション
能力が高いわけではなかろう。


そうすると、誰とでもフレンドリーに話せて、周りの空気も読める人間なんて、なかなかいな
いはずなのだが、スクールカーストは、なぜかそういう理想のモデルをあらゆる生徒に押し付
けていることになる。


ひとつのモデルだけが最高で、あとはキモいとかダサいと順位づけられてしまうことこそ、い
じめの原因だろう。多様性を認めない偏狭なイデオロギーが蔓延しているのだ。
いったい誰がそのようなイデオロギーを撒き散らしているのか、誰かに検証してもらいたい。


本文と写真はまったく関係ありません

( ^▽^)<いじめは許しません!




【追記】
トラックバック先のブログを拝見しました。勉強になりました。ありがとうございます。
コミュニケーション能力について、誰かと意思疎通できて初めてコミュニケーションが成り立つ、
という話がありました。
例外なのは十分わかっているのですが、ゴッホは生きている間、ほとんど誰ともコミュニケーショ
ンが成り立っていませんでした。死後はじめて、絵を通して画家として認められたわけです。


ある芸術作品がみんなに認められるのは、そこに何らかの普遍性があるからですが、周りの人が
バカな場合や時代が早すぎたせいで潰されることもあるでしょう。
(もちろん、自分だけがそう思っているバカな人もたくさんいるわけですが‥‥)
いまのコミュニケーション重視の風潮だと、そういう人を排除していくような気がします。