思考言語

今日の「リンカーン」で、関西出身の芸人が標準語を、関東出身の芸人が関西弁を、それぞれ
アドリブで喋る、という企画があった。
(厳密には、キャイーンの二人は愛知と山形の出身だけれども、テレビ的には標準語を喋って
いるから、関東圏のカテゴリーに入るのだろう)


お互いに、どうしてもイントネーションが不自然になり、ネイティヴスピーカーが判断すると
ダメな場合が多かった。
私は、関東出身の人間が関西弁を喋るのは難しいと思うが、逆の場合は簡単だと思っていたの
で、ダウンタウンなどが苦戦していたのが不思議だった。


和田アキ子をはじめ、関西出身なのに普通に標準語を喋っている芸能人はたくさんいる。
なぜか明石家さんまなどの芸人は、かたくなに関西弁を死守しているように思えるけど、
自分が関西弁で押し通せる環境にいるから、別に標準語が必要ないのだろうか? 


私は四国の人間なので、田舎にいるときはバリバリの伊予弁だが、東京にいるときはナチュラ
に聴こえるであろう標準語だった(つもりだ)。
自分が標準語を使っているところを、田舎の人間に見られると、すごく恥ずかしい気持ちになる
のだが、普段はまったく気にせず標準語で喋っていたし、思考していた。


そう、口に出さなくても、考えているときの言葉が標準語になっていたのに気づいたとき、あれっ
と思ったのである。


もしかして、日常の生活で使うような言葉のときは伊予弁で思考しており、こうして文章を書く
ときや抽象的なことを考えるときは標準語で思考しているのではなかろうか。
そして、脳内の、方言で思考する部分と標準語で思考する部分は微妙にズレているのではなか
ろうか、と考えたのだが、どんなもんだろうか? 


というのも、私は抽象的なことを基本的に本を読んで学んでおり、ほとんどの本は標準語によって
書かれている。
だとすると、標準語で基礎づけられた思考は、標準語によってドライヴされていると考えるのが
妥当なのではないかと。


その一方で、学校の授業で教師が喋る言葉は、標準語ではなく伊予弁だったような気がする。
この場合、音声言語は伊予弁で、文字は標準語なのだが、はたしてどちらで思考されていたのだ
ろうか。よく分からない。


そういえば、私が中学生に英語を教えていたときも、基本的には伊予弁だったと思う。
英語と標準語と伊予弁が混じっており、生徒は混乱したのかもしれないが、たぶん誰も違和感を
持っていなかったはずだ。なんでだろう。


これはまだ日本語の方言だからいいようなものの、外国語と日本語が話せる人の場合は、思考
言語が切り替わるのだから、さぞ疲れるのではないかと思う。
大量の外国語の文章を読んでいると、思考もその言語になったりするのだろうか。
だって、いちいち翻訳して読んでいたら、とても追っつかないだろうし。


あと、古典落語をやっている人も、ふだんからああいう口調で思考しているのか知りたい。
一般の人が落語口調になると、どうしても不自然に聴こえてしまうのだが、名人になると昔から
そういう喋り方をしているように聴こえる。
なんとなく、落語に思考を乗っ取られている感じがするが、いかがなもんでしょうな。


本文と写真はまったく関係ありません

从*・ 。.・)<れいなと喋るときは方言になっちょる