我々は子供のころにアニメや特撮番組で、悪いことをしては

いけない、という内容を繰り返し見たはずである。

いまもプリキュア仮面ライダーでは、ずるくて卑怯なやつは

悪いキャラクターとして退治されている。

 

この勧善懲悪の教訓はテレビ放送が始まる前から、ラジオドラマ

でも語り継がれていたし、もっと言えば江戸時代の娯楽本でも

そういうものがあった。

 

しかし、子供の頃に倫理観を教え込まれても、大人になって

悪事に走る人は一定数いる。

これはどうしてだろう? 

 

 

大人になると様々なしがらみがあって、正しいことを主張できない

ことがある。組織の利益のためなら、人としてやってはいけない

ことでも実行してしまうだろう。

 

組織を守るために悪いことをするのは、自分がいまの仕事を

失いたくないからだ。

もし他の勤め先がすぐに見つかるなら、悪事を告発するのでは

なかろうか。

 

そんなドライな人は少なくて、いまの生活を変えたくない人が

多いのかもしれない。

 

 

いっそ、子供向けの作品でも、法の盲点を突いて人を出し抜くのが

正しい、みたいな話を作ってみたらどうだろう。

どうせ倫理的なものを見せても正しい大人になるわけではないの

だから、新自由主義的なアニメや特撮を見せたらいい。

ジョージ秋山はそういう発想でマンガを描いていたのかもしれぬ。

 

*[本]掏摸

掏摸(スリ) (河出文庫)

掏摸(スリ) (河出文庫)

  • 作者:中村 文則
  • 発売日: 2013/04/06
  • メディア: ペーパーバック
第4回大江健三郎賞の受賞作品ということで、ちょっと期待しすぎたかも
しれない。スリリングな物語だったが、もう少し続きが読みたかった。
おそらく作者もそう感じたから「王国」という続編を書いたのだろう。
こんどそれも読んでみたい。


この小説はやたらと塔が出てきて、視線を垂直方向に誘導される。
作者のあとがきでもそのことは明かされているが、何のメタファーなのかは
あいまいだ。


私のようなオタクからみれば、一介のスリと国家規模の陰謀が直接リンク
するのは、ほとんどセカイ系である。ただ、マンガやアニメのセカイ系には
ない生臭さがあって、しかも救いもない。
それを味わうのが純文学というものか。


中村文則は、現在朝日新聞で連載している「カード師」にも、簡単に人を
殺す邪悪な男を登場させている。
気分次第で人の人生を弄ぶ人間が邪悪な存在だ、ということなのだろう。


なぜか邪悪なものというと、村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくる
ジョニー・ウォーカーを思い出す。
こちらのほうが抽象度は高いが、文学ではより邪悪なものとは何かを
探求している気さえした。


本書で気になったところを引用すると

「……他人の人生を、机の上で規定していく。他人の上にそうやって君臨する
ことは、神に似ていると思わんか。もし神がいるとしたら、この世界を最も
味わってるのは神だ。俺は多くの他人の人生を動かしながら、時々、その
人間と同化した気分になる。彼らが考え、感じたことが、自分の中に入って
くることがある。複数の人間の感情が、同時に侵入してくる状態だ。お前は、
味わったことがないからわからんだろう。あらゆる快楽の中で、これが最上の
ものだ。いいか、よく聞け」(p128)

という部分だ。


陰謀を差配している男が主人公を脅迫する場面で語られる。
お前の生殺与奪は俺が握っているぞ、ということだ。


これはまた、作家が物語を書く行為をあらわしているとも考えられる。
実在する人間か架空かの違いである。
そして読書の楽しみのひとつは、キャラクターに感情移入することだ。
それが「あらゆる快楽の中で、これが最上のもの」とは言えないが、
作家がひとつの世界を作り出しているときは、そういう快楽があるの
かもしれない。


映像化するには尺が足りないかもしれないが、これを原案にして映画や
ドラマを作ってもよさそうだ。

6月12日付の朝日新聞に、角幡唯介という探検家の寄稿が

載っていた。

3月から5月までグリーンランドに探検に出かけており、

その間の情報源は日本にいる妻との電話だけという話だった。

つまり彼は新型コロナウィルスの騒動から隔離されていた

わけだ。

 

まるで浦島太郎になったような話はすごく面白かったのだが、

私が気になったのは「鬼嫁」という言葉が出てきたことである。

ここから話は脱線する。

 

 

そういえば、鬼嫁という言葉はわりと耳にするが、その反対語とは

何だろうか? 嫁に対する言葉は婿だから、鬼婿か。

グーグルで検索すると、鬼嫁は1億3000万件ヒットするが、鬼婿は

1150万件だった。ほぼ10分の1である。

 

嫁も婿も、家を中心に見て、そこに新しく入ってきた人である。

家制度は男性の家長が最も偉いことになっていたので、婿入りした

としても権力があった。

逆に女性は虐げられるのが普通だったと考えられる。

 

つまり鬼嫁とは、服従するのが当たり前の存在がそうでなくなった

現象を意味する。珍しいのでよく使われる言葉になったのだろう。

 

鬼婿は今でいうとDV夫で、これは昔から当たり前のように

いたので、言葉にすることもなかったのではなかろうか。

 

 

ただ、自分から鬼嫁という夫は、ちょっとうれしそうである。

本当に深刻な被害を受けている場合は他人には言わないだろう。

結婚というのは、このように嫁に調教されてしまうものなのだ。

*[本]トラクターの世界史

名著だと聞いていたが買いそびれてしまい、ジュンク堂で見つけたので
読んでみた。
とにかくトラクターに関することであれば、いかなることでも目を通す、
という迫力が感じられた。文学作品への目配りもあって、滋味深い内容
だった。


人類が数千年にわたって人か家畜で耕していたことを、ここ100年ぐらいで
機械化できた事実に驚くべきだろう。
ただ、それによるデメリットもあって、スタインベックの「怒りの葡萄」で
描かれたダストボウルの原因のひとつがトラクターによる土壌圧縮だという。
てっきり自然災害かと思っていたが、現在でも無計画にトラクターを使って
いるところでは起こることだという。


また、デメリットというわけではないが、トラクターは戦車の開発の出発点
だった、という事実も知った。
農地を走行するために開発された履帯が、戦車に転用されたそうだ。


さらに、有名なエピソードで

 ランボルギーニが高級車メーカーに変貌と遂げるのは、トラクターで富を
築き、高級車のコレクターになったからだ。「順調に仕事がうまくいったころ、
彼はフェラーリを購入したが、どうしてもその走りや性能に満足できなかった。
[トラクター工場内で]車を分解してみると自社のトラクターと同じ部品が
使われており、しかもその部品には何倍もの値段が付けられていた。納得が
いかなかったためエンゾ[エンツォ]・フェラーリ[1898-1988]に直接面会
したものの、まともに相手にしてもらえなかった。そこで対抗心を燃やし、
1963年にモーデナとボローニャのあいだに位置する小さな町で現在の本社・
工場があるサンタガタ・ボロネーゼにランボルギーニ自動車を設立した」
(松本敦則「戦後経済と『第三のイタリア』」)(p163-164)

というのが紹介されていた。
現在ランボルギーニのトラクター部門は別の会社の傘下に入って生産を
続けているそうだ。


ちなみに米国の著名人には、トラクターのコレクターもいるそうだ。
成功して広い農場を手に入れて、自分でトラクターを運転するらしい。



最後の方にはトラクターの騒音や振動・安全性の問題についても触れられて
いる。
なぜ技術者はトラクターの乗り心地について乗用車ほど気にしないのだろう? 
そこまでコストをかけなくても売れるからだろうか。
いつかロールスロイスのような静かなトラクターが開発されることを祈っている。

新型コロナウィルス対策にみんなマスクをしている。

WHOでもマスクを推奨しているが、あれはどういう根拠があった

のだろうか。最初はしなくてもいいと言っていたが。

 

私の理解では、医療用のマスクでない限りウィルスは防げないが、

感染している人がウィルスを撒き散らさないようにする効果はある、

というものだ。

 

 

なので、地方で健康な人ならばマスクをしなくてもオッケーな

はずではなかろうか。

これからどんどん暑くなるし、マスクをする方が健康に悪い。

 

ただ、もうマスクはしなくてもいい、と誰かが言ったあとで

感染者が出たら、その人の責任にされてしまう。

だから誰も言い出せないのだろう。

 

専門家会議で、人口密度が一定以下で新しい感染者が出てない

地域はマスクをしなくてもいい、と言ってくれないものだろうか。

 

もうマスクをするもしないも自己責任で、と言うとリバタリアン

みたいだが、ここまで同調圧力が強い社会だと、マスクが原因で

熱中症になって犠牲者が出るまで、誰もマスクを外せないのでは

なかろうか。

はすみとしこが伊藤詩織さんに提訴された。

その後はすみは

伊藤詩織さんへ。

550万円欲しかったら、私が木村花さんの様にならないよう、

最新の注意を払った方がいいんでねぇの?

とツイートしている。

私ははすみが自殺しても何とも思わないどころか、お祝いにチャーシュー

麺を食べに行くぐらいうれしい。

 

ちなみにマンガ家やイラストレーターで彼女を擁護する人はどのくらい

いるのだろうか。

はすみとしこにも表現の自由はある、というのは正論だが、犯罪の

被害者を揶揄する表現に対しては責任をとるべきだろう。

 

 風刺は基本的に公人に対して行われるものだと思う。

新聞に政治家や芸能人のカリカチュアが掲載されるのは、ある程度は

しょうがないことだろう。

しかし弱者に対して揶揄するのは人として間違っている。

 

日本にシャルリーエブドのような媒体があれば、はすみも大活躍した

だろう。もしかしてWiLLとかHANADAみたいなネトウヨ雑誌になにか

描いているのだろうか。

 

 

ここ最近でオタクをバカにする画像といえば「チー牛」だろう。

最初は何のことだか分からなかったが、検索したらこの画像が出てきた。

f:id:Boaz:20200610052010j:plain

これは実在の人ではないので被害者はいないが、はすみとしこと同じ

ような悪意を感じる。

どうせならウェーイ系をバカにする絵も描いてほしいものだ。

 

新型コロナウィルス対策の、一律10万円の給付金が入金された。

ありがたいことだが、たぶん生活費に消えるだろう。

 

国民ひとりあたり10万円なので、単純計算で総額12兆円になる。

国家予算から12兆円をひねり出しても、今のところハイパーインフレ

にもなってないし、円が暴落もしてない。

まだ余裕があると思われているのだろう。

 

では、国民ひとりあたり1000万円を給付したらどうなるか。

1200兆円の国債を発行することになるが、実際に誰かシミュレーション

してほしい。

 

あらゆる人に1000万円をばらまいたら、社会はどうなるのだろう? 

単に通貨の価値が千分の一ぐらいになって、買い物が面倒になる

だけだろうか。

 

さすがに国際的な信用がなくなって、アルゼンチンのように

債務不履行になるか、あるいは投機筋が動いて通貨危機

起こるのか。

ちなみに日本が保有する米国債は1兆6000億ドルだそうだから、

全部売っても120兆円ぐらいにしかならない。

 

しかし、ここまでくると、お金というのは幻想にすぎないという

証明になるのではなかろうか。

みんなが不安になって信用しなくなったとたん紙切れになって

しまう。

その信用はどのあたりでなくなるのか、誰か実験してほしいものだ。