バットマン・ビギンズ

公開から一ヶ月経ってようやく見てきた。
客は私を含めて3人で、冷房がきつかった。


この映画は、
「大金持ちの子供が目の前で強盗に両親を殺され、成人してから犯罪に
対して私的制裁をするに至る経緯」
を描いている。


主人公は、自分が大富豪であることに疑問も罪悪感も抱いていない。
所与のものとしてナチュラルに受け入れている。
これは、我々が先進国の人間として当たり前に生活していることの
反映だ。
もっと言うなら、米国が世界を支配していることに対して何の自省も
していないことを意味する。


だから、貧困を何とかしようとか、銃の保持を規制しようとは思わない。
自己の力で「悪」を叩き潰そうと考える。


なぜ、自己の力に頼らざるをえないのか。
映画では、司法や行政(警察)が公正に機能していないから、と説明
される。
だとしたら、まず公正さが機能されるようにすべきではないかと思うのだが、
それは「どうしようもないこと」と片付けられる。


私は、米国が国連に対して公正さを要求し、それを諦めて単独行動を
とることとパラレルに思える。


ヒーローが描かれる映画の場合、それに対する「悪」もまた明確で
なければストーリーがクッキリしない。
バットマンでも、時系列的にこの「ビギンズ」以降の作品では、ジョーカー
やペンギンなどの、異常な犯罪者が市民を脅かしている。
仮面ライダーだって、懲らしめるのはショッカーであって、一般の
犯罪者ではない)


ところが、この作品では、悪役があいまいなのである。
影の軍団」というのが中国のチベット自治区(たぶん)にいて、その
総帥役が渡辺謙なのだが、彼らは彼らなりの理論によって悪を裁いて
きているのだ。
しかも、主人公はその「影の軍団」で修行すらしている。


おそらく、同時多発テロ以降の、混迷した世界観が影響しているのだろう。
そして、何とか混乱の中から秩序を見出したい、という願いもこめられて
いると思う。


だが思い出してほしい。
現実の世界でも、サウジアラビアの大金持ちの息子が、独自の判断で「悪」を
叩いていることを。


バットマンの正義は、ゴッサム・シティ内だけで通用するのではあるまいか?