「君の名は。」と並ぶ名作だった。今年はアニメ映画の当たり年だ。
以下はネタバレ。
↓
山田尚子監督は、ピッチャーに例えるなら右の本格派で、ストレートをぐいぐい
投げ込んでくるタイプだ。
前作の「たまこラブストーリー」は、ほぼまっすぐを投げ続けて完投した。
強い地肩があるからできることだ。
「聲の形」は、聴覚障害者が主人公の作品で、かなりデリケートな作りが要求される。
なので、変化球とストレートを投げ分けているように思えた。
ただし、ストレートが豪速球だからこそ変化球が生きるわけで、我々はその力強い
演出を受け止めなければならない。
↓
主演をつとめた早見沙織は、大きな映画賞をもらうべき演技を見せたと思う。
アニメ関係の映画賞ではなく、邦画全体の映画賞である。
そのくらいすごかったのだが、おそらくアニメ作品は差別されているので、
実写映画の誰かが表彰されてしまうだろう。
(もしこの予想が覆ったなら、お詫び申し上げる)
この映画を見た同業の声優は震撼するだろうし、監督は彼女を指名してオファー
するのではなかろうか。
↓
音楽も素晴らしかった。
冒頭の小学校時代のいじめの場面は、THE WHO の曲を持ってくることで荒々しい
印象を分担していた。うまい使い方だったと思う。
途中に、耳の聴こえない人が聞こえるであろう音を耳の聴こえる人に対して作って
いるところがあって、その細かい技術に驚いた。
そしてエンドロールで流れる aiko の「恋をしたのは」は、まさに山田監督の狙う
ラブソングの豪速球だった。
↓
さて、ここからは本当にチラシの裏的な話である。
私は映画を見る前にマンガの単行本を買っていたのだが、2巻目までで読むのを
やめていた。それ以上読み続けるのが苦痛だったからだ。
物語がつまらなかったからではなく、登場人物の中に酷い人間が多かったから
である。彼らが、お前もそういう人間ではないのか、と刃をつきつけるようだった
からである。
しかし、映画公開前に、なんとか全7巻を読み通した。
そして、何とも言えないモヤモヤが残ったのだった。
↓
そのモヤモヤとは、善悪のバランスの問題である。
単純な娯楽作品ならば、悪いことをした奴は罰を受けなければならない。
それがエンタテインメントの帳尻というものだ。
だが「聲の形」は単純な娯楽作品ではない。むしろ純文学寄りと言える。
なので、いじめの罪を他人に押し付けた人間たちは、罰を受けない。
そこがこのマンガのリアリティだろうし、読者の心を引っ掛けて離さない
棘のようなものなのだと思う。
しかし、耳の不自由な西宮硝子は、何か悪いことをしたのだろうか。
↓
映画化でどう描写されるか、まず気になったのは黒髪ロングの植野直花である。
ここまで自己中心的なキャラクターも珍しい。
西宮硝子の母と殴り合いをする場面は映画でも描かれていたが、マンガのような
狂気は映像ではあまり感じなかった。
なぜ、この子が最後にしれっと仲間ぶっているのかが分からない。
それは川井みきも同様である。本当に気持ち悪いほど加害意識がない。
他にも小学校の教師や島田や広瀬も、基本的に悪いことをしたまま終わる。
マンションから落ちた石田を助けたのが島田だとして、それで罪が消えた
わけではないだろう。
さらに、西宮硝子の父親とその両親である。
田舎の人にありがちな障害者差別丸出しで、映画ではカットされていた。
彼らもその後どうなったのかはマンガで描かれていない。
映画評論家みたいな人が、応募した作品を酷評する場面もマンガでは
あったが、公衆の面前でそんな発言をするかしら、とも思った。
あれは編集者がモデルなのだろうか?
↓
作者は、むしろ世間の半分はそういう人たちでできているのだ、と伝えたい
のかもしれない。
映画を見終わってから、マンガを再読してみたが、やはり読むのが辛かった。
大人になった主人公たちが幸せになりそうな予感がするのが、せめてもの救い
だった。
映画は尺の都合で、文化祭のところで終わっているが、原作のマンガを読んで
違いを比べていただきたい。
ところで、なぜ石田くんのビッチな姉だけは顔を出さない演出だったのだろうか。
夫のブラジル人はちゃんと描いているのに。
何らかの意図があると思うのだが、理由が分からなかった。
誰か教えてください。