Boaz2015-10-15

昨日の「目の見えない人は世界をどう見ているのか」で書き忘れたことがあった。
この本に難波さんという盲人のエピソードとして

 難波さんは、自宅でよくスパゲティを食べるのでレトルトのソースをまとめ買い
しています。ソースにはミートソースやクリームソースなどいろいろな味がありますが、
すべてのパックが同じ形状をしている。つまり一人暮らしの難波さんがパックの中身を
知るには、基本的に開封してみるしかありません。ミートソースが食べたい気分のときに、
クリームソースがあたってしまったりする。


 はたから考えれば、こうした状況は一〇〇パーセントネガティブなものです。でも
難波さんは、これを単なるネガティブな状況とは受け取りません。食べたい味が出れば
当たり、そうでなければハズレ。見方を変えて、それを「くじ引き」や「運試し」の
ような状況として楽しむのです。
「残念というのはあるけど、今日は何かなと思って食べたほうが楽しいですよね。
心の持って行き方なのかな」「『思い通りにならなくてはダメだ』『コントロール
しよう』という気持ちさえなければ、楽しめるんじゃないかな」。


 つまり難波さんは、見えないことに由来する自由度の減少を、ハプニングの増大と
してポジティブに解釈しているのです。「情報」の欠如を、だからこそ生まれる「意味」
によってひっくり返しているのです。(p 193-194)

という話が紹介されていた。



それで連想したのが、「タモリ倶楽部」の名物コーナー“空耳アワー”である。


普通の日本人には、外国語の曲の歌詞が全く分からない。
これは「情報」の欠如である。


しかし、それを逆手に取って、日本語に聴こえる歌詞を探して楽しんでいる。
非常に洗練された笑いで、無理やり製作された映像も楽しい。
外国語の音楽に新しい「意味」を見出しているのだ。


そう考えると、デタラメなんだけれども外国語らしく聴こえる、タモリのモノマネ
芸は、外国語が理解できないから面白いわけで、“空耳アワー”と同じである。


そういえばタモリは坂道や段差が大好きだった。
盲人のように三次元的に空間をとらえているのは、片目を失明しているからかも
しれない。